雪山症候群

【Yukiyama Shoukogu】

「まいったわね」

 俺の前を歩いているハルヒが本心を吐露するように言った。

「全然前が見えないわ」

 ここはどこかと訊くかい? 夏休みは孤島に行った。では冬休みはどこに行くかをハルヒの頭になって考えてみればいい。

「おかしいですね」

 古泉の声は最後尾から聞こえてくる。

「距離感から言って、とっくに麓に着いているはずですが」

 ヒントは、寒くて白い所だ。

「冷たいです……うう」

 吹き付ける風のせいで朝比奈さんの声は切れ切れだ。俺は振り返り、カルガモのヒナのようにおたおたと歩いているスキーウェアを確認した。励ますようにうなずきかけてあげてから目を先頭に戻す。

「…………」

 俺たちを先導している長門の足取りも心なしか重い。踏みしめる白い結晶が粘着するかのようにスキー靴にまとわりつき、一歩歩くごとに体積を増している感じだ。そんな感じになるような場所と言えばどこだ?

 面倒だ。答えを言っちまおう。

 見渡す限り白景色で、行けども行けども冷たい雪しか目に入らない。

 そうとも、ここは雪山以外のどこでもない。

 吹雪の山荘にやってきたあげく、その雪山で絶賛遭難中----。それが今俺たちの置かれている限りなく正確な状況だった。

 さあてと。これは誰が予定した筋書きなんだろうな。この時ばかりは結末のあるシナリオの存在を信じたい。でないと、俺たちはここで五人揃って凍死の憂き目に直面し、春頃なって溶けた雪の下からチルド状態で発見されかねん。

 古泉、なんとかしろ。

「そう言われましてもね」

 コンパスに目を落とした古泉は、

「方向はあっているはずです。長門さんのナビゲーションも完璧でした。にもかかわらず僕たちはもう何時間も山を下りることができません。普通に考えて、これは普通の状況ではありませんね」

 じゃあどういうことなんだ。俺たちは永遠にこのスキー場から出られないのか?

「異常であることは間違いないようです。まるっきり予測不能でした。長門さんにも原因が解らないのですから、何しろ不測の事態が発生したということだけは解ります」

 そんなん俺にも解ってる。先頭を歩く長門が帰り道を発見できずにいるのだから、これは相当おかしなことだ。

 またか。またハルヒが何かロクでもないことを考えついてしまったからか。

「一概には言えませんね。これは僕の感覚が教えてくれる勘ですが、涼宮さんは決してこのような現象を望んだわけではないと思います」

 どうして言い切れる。

「なぜならば、涼宮さんは宿の山荘で発生する不思議な密室殺人劇を楽しみにしていたはずだからです。そのために僕もいろいろ考えたのですから」

 夏に続いて冬の合宿先でもマーダーゲームが予定されていた。前回は失敗気味のドッキリだったが、今度は最初から自演であることを明かしての推理大会である。実は登場人物も同じで、孤島で俺たちを待っていた荒川執事に森園生メイド、多丸兄弟がまたもや同じ役名と間柄で芝居してくれることになっていた。

「確かにな……」

 実際、ハルヒは犯人と犯人特定に至るトリックの解明を楽しく待ちわびていたから、まさか今夜にも事件が起こると解っている山荘に帰り着くのを無意識にだって拒否したりはしないだろう。

 付け加えれば、そこには臨時エキストラとして鶴屋さんと俺の妹、それからシャミセンまでいて、俺たちの帰りを待っているのだ。

 実を言うと俺たちが宿にしている山荘は鶴屋家が所有する別荘だった。あの明るく調子のいいお方は自分もついて行くことを条件に合宿所提供を快諾し、シャミセンは古泉が考案したトリックの小道具として使用するためで、妹は勝手に俺の荷物に付着していた。その二人と一匹は遭難仲間には入っていない。シャミセンは山荘のマントルピースの前で丸くなってるだろうし、鶴屋さんはスキーのできない俺の妹に付きあって雪ダルマを作って遊んでいた。それが俺の覚えている最後の光景だった。

 三者ともハルヒにはほぼSOS団準団員であり、再会を拒む理由は誰にも、特にハルヒにはありはしない。

 だったらなぜだ。なぜ俺たちは暖房の効いたSOS団冬合宿の場へと帰還を果たせないんだ。

 長門の力をもってしても行き先が見通せないとは、いったいこれはどうしたことだ?

「夏冬連続で嵐とはね……」

 学校が長期休暇に入るたび、俺たちは人知を超えた現象に遭遇しなければならないという法則でもできたのか?

 疑問と不安のブレンドを幻味的に味わいつつ、俺は過去の記憶を呼び出していた。

「なんでこんなことになっちまったんだ?」

 では回想モード、スタート。

 ………

 ……

 …

 

 冬休みに合宿することはほとんど決定された未来に等しく、そんな未来があらかじめ見通せていたなら実際にその通りのことが起こっても驚きはない。

 なんせ夏休みの初日に出発した殺人孤島ツアー(台風付き)が終了したと思ったら、すでにその帰りのフェリーの船上において高らかに宣言されちまい、誰が宣言したかというとそれはハルヒ以外の誰でもなく、その決意表明をうやむやのまま呑まされたのはハルヒ以外の俺たちでありツアーコンダクターに叙任されたのは古泉である。

 冬になったら別のことに興味が向いているかと少しは期待していたのだが、我らの団長はこういうところだけはやけに物覚えがいいらしく、

「年越しカウントダウンinブリザード」

 俺たちにホチキスで留めたペラが回ってきた。配り終えたハルヒは誘拐犯が子供に向けるような笑顔で、

「予定通り、この冬は雪の山荘に行くわよ。ミステリアスツアー第二弾!」

 場所は部室で、時間は終業式が終わったばかりの二十四日のことである。長テーブルの上ではカセットコンロにかけられた土鍋がグツグツ言っており、俺たちは雑多な食材が適当に煮えているだけのその鍋を囲んで昼飯代わりにしていた。

 ハルヒがデタラメな順番で投入する肉や魚や野菜類を、布巾をかぶったメイドバージョンの朝比奈さんが菜箸でより分けたりこまめにアクをすくったりしている傍らで、ただ喰っているだけの俺と長門と古泉のSOS団五人組に加え、今日はスペシャルゲストを招いていた。

「うわっ、めちゃウマいっ。何これっ? はぐはぐ……ひょっとしてハルにゃん天才料理人? ぱくぱく……うひょー。ダシがいいよ、ダシがっ。がつがつ」

 鶴屋さんである。この元気な声の主は黙々と食いつづける長門と張り合うように、いちいち雄叫びを上げながら箸を高速移動させて鍋の中身を自分の取り皿に運び込み、

「やっぱ冬は鍋だねっ! さっきのキョンくんのトナカイ芸も大笑いしたし、いやーっ今日は楽しいなあっ」

 ウケてくれたのはあなただけでしたよ鶴屋さん。ハルヒと古泉は終始ニヤニヤ笑い、朝比奈さんなんか途中で顔を伏せて肩を振わせ始めたし、長門に至ってはそれのどこが面白いのかとロジカルに考えているような表情で、まったくいたたまれない気分を最大限に実感しながら俺は滝のようなヒヤ汗をかいていた。人を笑わせる才能に欠けていることをハッキリと悟ったね。芸人の道だけは志すまいと心に決めたところであるが、まあ、それはいい。

 鶴屋さんは単なる鍋仲間や朝比奈さんの付き添いとしてここにいるのではなかった。それがゆえのスペシャルゲストなのである。ではいったいどんなスペシャルなのかと言うと……。

「その吹雪の山荘なんだけどね」

 ハルヒは山荘の枕詞を雪から吹雪へとグレードアップさせて、

「喜びなさい、キョン。なんと! 鶴屋さんの別荘を無料で利用させてもらえることになったわ。なんかスゴくいい所らしいわよ。今から楽しみだわ! さ、じゃんじゃん食べてちょうだい」

 ハルヒは豚肉の塊を鶴屋さんの皿に投下させ、ついでに自分の皿にも食べ頃になったアンコウの切り身を確保した。

「いっつも家族で行くんだけどねっ」

 鶴屋さんは口に放り込んだ豚肉を丸飲みして、

「今年はおやっさんがヨーロッパ出張でいないんだよね。どうせだから三が日が終わったら家族でスイス行ってスキーしようってことになっちゃったっ。だから別荘のほうはキミたちと行くよ! なんか面白そうだしさっ」

 朝比奈さんがポツリと漏らした合宿の件を聞きつけた鶴屋さんが、ならばと言って申し出てくれたということらしい。古泉も渡りに船だとばかりにホイホイと賛同し、冬の合宿旅行書をハルヒにプレゼンテーションしたところ、ハルヒは刺身をまるごと与えられた猫のように大喜びし、

「鶴屋さんにはこれを進呈するわ!」

 机の中から取り出した無地の腕章に『名誉顧問』と書き殴って渡した----そうだ。

 その古泉はにこやかな顔で、ハルヒと長門と鶴屋さんによる大食い選手権みたいな食べっぷりを眺めていたが、俺の表情に気づいたか、

「ご安心を。今度はドッキリではありませんから。あらかじめ断っておいた上での推理ゲームですよ。実はメンバーも前回と同じです」

 荒川執事と森メイドさん、多丸兄弟の計四人が今回も寸劇を演じてくれるという予定だと言う。そりゃいいんだが、その四人は普段いったい何をしている人たちなんだ? 『機関』とやらの事務職員か何かか。

「いずれも僕の知り合いで小劇団の役者さんたちです……ってとこでどうでしょうか」

 ハルヒが納得するんだったらそれでもいいさ。

「涼宮さんは面白かったら何だって気にはしませんよ。それが最大の問題でもあるんですが……。シナリオに満足してくれるかどうか、今から胃が痛みます」

 古泉は胃の上を押さえるジェスチャーをしたが、微笑みくんのままなので下手な芝居にすら見えないね。

 俺はハルヒよりも人間ができているつもりなので、能天気に面白がって後のことをさっぱり考えないという楽天気分にはなれそうもない。安心材料がどこかにないかと見渡して最初に目が止まったのは長門の無表情顔である。いつもの調子の長門だった。俺がずっと知っていた普段通りの長門有希は、まるで何事もなかったかのように鍋料理をもりもりと食っている。

「…………」

 何にせよ、と俺は思う。

 今度だけでも長門に負担がかかるような事態にはさせないようにしよう。いや、せにゃならん。順番から言えば今回はだいじょうぶな回のはずだ。夏合宿では長門が妙な活躍をするシーンはなかった。冬の合宿でもそうなってもらいたい。苦労するのは古泉とその仲間たちだけでいい。

 俺はそう考えながら手元のペラ紙に視線を落とした。

 この紙切れに書かれているスケジュールによると、出発は十二月三十日。大晦日の前日だ。雪山と言ってもそう遠い所ではなく、列車で何時間か揺られていればその日のうちに到着する。

 とりあえず着いたその日はスキー三昧で、晩は全員で宴会(アルコール厳禁)、料理は夏の島に引き続き荒川執事氏(ニセ執事なんだが本物以上に執事っぽかったので他に言いようがない)と森園生さん(ニセメイドだが以下同)が担当してくれるのだそうだ。多丸氏二人は翌日の朝に遅れてきた客として登場、そこから推理ゲームの前フリが開始されることになっている。

 そうやって大晦日を事件発生とトリックの解明にあてて午前0時前に全員集合、おのおの持ち寄った推理を『毒入りチョコレート事件』的に順番に披露し、最終推理者に内定している古泉が軽やかに解答を激白する。そして胸のつかえがスッキリ解消したところで終わりゆく一年に別れを告げつつ、来る新しい年に挨拶を送る。ようこそ!

 という計画になっていた。

 顔を上げるとハルヒの大得意顔が俺に向けられている。何もやっていないうちからどうしてそんなに得意げでいられるのかが不思議でならないね。

「新年を盛大に祝ってあげるのよ」

 ハルヒは長ネギを箸でつまみながら、

「そしたら新年のほうも感謝して、すっごくいい年になってくれるわ。あたしはそう確信しているの。来年はSOS団の転機となる年になりそうな気がするのよね」

 年月を勝手に擬人化するのはいいが、お前にとってのいい年が俺たち全員にとってのいい年になるとは思えん。

「そう? あたしは今年がすっごく面白かったし来年もそうなったらいいなと思ってるけど、あんたは違うの? あ、みくるちゃん、鍋が煮詰まってきたからお湯足して」

「あっはいはいっ」

 朝比奈さんはヤカンの許へパタパタ駆け寄り、

「うんしょ」

 重そうに持ってきたヤカンを鍋の上で注意深く傾けた。

 その華麗なるお姿を見つめながら、俺は今年一年のうちに出くわした様々なあれやこれやを思い出し、少しばかり感情が揺れ動いた。ハルヒはすっごく面白かったと言う。では俺が面白かったかどうかと問われれば、決まってる。

 だいたいガキの頃に何か不思議なことがないかと、あればいいだろうなと考えていたのが俺の初心だったのだ。それこそ宇宙人でも何でもいい、その手のものが出てきて何かやってるような話に一枚加わりたかったんだからな。妄想が実現してるんだから大喜びしていないと本来ならおかしいんだ。だかなあ、いくらなんでもこう続けざまに加わりっぱなしになるとは想定外だったぜ。

 しかし、そんなことを内心で思いつつも本音はこうだ。

 ああ、楽しかったさ。

 今ならハッキリ声高らかに言える。この境地まで辿り着くのには相当な時間がかかったよ。ただし、もう一つ本音を言わせてもらえば、もうちょっとだけ平穏でもよかったとも思うんだ。俺的には普通に部室で遊んでいる温いインターバルが、あとほんの少し欲しかった。

「変なこと言うわね」

 ハルヒはアン肝を頬張りながら、

「ずっと遊んでばかりいたじゃん。ひょっとしてあんた、まだまだ遊び足りなかったって言うの? だったら年が終わる前にラストスパートをかけようか」

「いらんことはせんでいい」

 こいつは知らないのだ。これまで俺がどんな事態に遭遇し、どうやって切り抜けてきたのかを。野球に勝ったり、夏休みを終わらせたり、映画でおかしくなりかけた現実を回復させたり、過去に行って戻って来てまた行って、さらにもう一度行くことが決定しているんだぞ。自分で決めたことだから誰を恨もうとも思わないが、将来教職を取る予定もないのにこの時期、俺大いそがしだ。

 まあ、そんなこともハルヒには言えないんだが。

「スパートするのはその山荘に行ってからでも間に合うだろ」

 俺はハルヒが伸ばしかけていた箸を払うようにして鍋から白菜を引き上げた。せっかくのハルヒ特製鍋だ。食欲旺盛な女性陣(朝比奈さんは除く)に食い尽くされないうちに腹に収めとこう。次にいつ喰えるか解らない。

「まあね」

 ハルヒは機嫌良く牛モツを己の皿に移し替える。

「スパートついでにスパークもするわよ。いい? 大晦日は実は年に一回じゃないの。考えても見なさい。その年のその日は一生に一度しかないわけ。今日だってそうよ。今日って日は過ぎちゃえばもう二度と来ないのよ。だからね、悔いを残さないように過ごさないと今日に申しわけないわよね。あたしは一生記憶に残るような毎日をすごしたいと思うわ」

 ハルヒの夢見るような口調に、横で生煮えの鶏肉にかぶりついていた鶴屋さんが、

「わお。ハルにゃん、三百六十五日にあったことを全部覚えてんのっ? すっげー。みくるーっ、お茶ちょうだいっ」

「あっはいはいっ」

 急須を片手にした朝比奈さんは鶴屋さんが掲げる客用湯飲みに注意深く煎茶を注ぐ。すっかり小間使いにされているが、そうしている朝比奈さんはなんだか嬉しそうだった。ハルヒは無頓着な鍋奉行を大いに楽しんでいるし、古泉は湯気を立てる鍋を背景にしてまで優美な印象を受ける微笑をたくわえ、長門は黙々モグモグと聞こえない舌鼓を打ち続けている。名誉顧問となった鶴屋さんが臨時の準団員として加わっているが、おしなべていつものSOS団的雰囲気だった。

 今の俺はよく解っている。こういう時間こそが貴重なのだ。こっちを選んじまった以上、これからもハルヒを中心とする微妙に奇妙な出来事が何だかんだと発生するのは高確率で間違いない。すべてのオチがつくその日まで、あと一つや二つくらいは何かあるだろう。

 とりあえず異世界人がまだ来てないってのもあるしさ。

「来るなら来てみやがれってんだ」

 思わず呟きが漏れてしまったが、ハルヒと鶴屋さんが椎茸の奪い合いをする歓声にまぎれて誰の耳にも届いていないようだった。

 ただ、長門だけがほんの少し睫毛を動かしたような気はした。

 ふと窓が目にとまる。空が出し惜しみしているような景気の悪さでポツポツと雪が降っていた。俺の視線を読んだ古泉が、

「旅行先の山に行けばイヤと言うほど雪遊びができますよ。ところでスキーとスノボ、どちらがいいですか? 用具の手配も僕の仕事なのでね」

「スノボはやったことないな」

 生返事をして冬空から目を離した。古泉は無難なスマイルを浮かべたまま、だが目端を利かせていたようで、

「あなたが見ていたのはどちらのユキでしょう。空から降るほうですか? それとも、」

 これ以上古泉と見つめ合っていても益はない。俺は肩をすくめ、椎茸奪取作戦に参加することにした。

 首尾よく教師にも教師にチクろうとする誰かにも見つからず、あるいは気づきつつスルーしてくれただけかもしれないが、ともかく満腹となった俺たちは鍋やら食器ならゴミやらを片づけて部室を後にして、学校を出た時には小雪も収まっていた。

 実家で開催されるパーティーにどうしても出席しなければならないという鶴屋さんと別れ、SOS団の面々はケーキ屋に向かった。ハルヒが予約していた特大のクリスマスケーキを受け取ってから目指した場所は長門のマンションである。

 一人寂しく聖夜を過ごす長門をおもんぱかったわけではなく、一人暮らしの長門の部屋ならケーキ食いながらバカ騒ぎを楽しめるという条件のよさがものを言った。ツイスターゲームを担いでいる古泉とケーキの箱を抱える俺のどちらが幸せか解らないが、先頭を切って跳ねるように歩いているハルヒは充分にハッピーステイタスに見え、それは時折ハルヒに両手を持って振り回されている朝比奈さんや、無言でてくてく歩みを刻む長門にも伝染しているようにも思える。

 このぶんだと雪の代わりにサンタの大群が降ってくることもなさそうだ。ハルヒは普通人レベルのクリスマスイブを満喫して、それだけで腹一杯のようだった。俺の妹とどっこいの精神構造だな。今日だけかもしれんが。

 理由をわざわざ言うこともないと思うが、この時期の俺は寛大な気分を持続させていた。たとえハルヒがサンタ狩りに行こうと言い出して夜の町を徘徊することになったとしても、俺は苦笑混じりで付き合ってやったかもしれない。

 防音処理の行き届いた長門の部屋で古泉の用意した各種ゲームに興じている間、俺たちの誰もが楽しそうに見えたのは真実だ。ノートパソコン二台を繋いでプレイした トーナメントは長門の独壇場で、ツイスターゲームではハルヒと押し合いへし合いするハメになったが、そこらを歩いているカップルも引き込んでお前らも参加しろと言ってやりたいほどの大騒ぎな夜----。

 

 俺たちのクリスマスイブはそんなふうだった。

 

 そのクリスマスイブから大晦日イブまでは、まるでハルヒが時間の背中をぐいぐい押しているのではないかと思えるほど一瞬で過ぎた。その間に部屋の大掃除をしたり、中学の級友から頭を疑いそうな電話がかかってきたり、その絡みでアメフトの試合を見に行ったりというようなことをしていたものの、総じて順当に年の瀬は押し迫っていく。

 新しい年か。本当にどうなっちまうんだろうね。俺個人的なことを言えば、そろそろ成績のほうを何とかしないとけっこうヤバイな。

 母親は俺を予備校に放り込みたくてうずうずしている様子を言外に見せており、これが健全な運動部でバリバリ活躍していたり健全でないにしても得体の知れている部活に参加しているならまだイイワケのしようもあるが、健全でもなければ得体も知れない未公認団体でひたすらブラブラしている----ように周囲には見えるだろう----成績不振の進学志望者がいたら俺だってちったあ高校で学ぶことがあるだろうよと言いたくなる。

 どういう理屈かハルヒは理不尽なまでに学業優秀、古泉だってこの前の期末の結果だけ見りゃ秀才の範疇に入り、考古学的な趣味からかもしれないが朝比奈さんは割と努力して授業を聞いているようだし、長門の成績なんかあえては語るまでもないだろう。

「ま、後回しにしておくか」

 まずは冬合宿を成功裡に終わらせないとな。今考えるべきはそれだけでいい。勉強なら新年になってからでもできる。年越しカウントダウン合宿は年内にスタートを切らねばならない。

 と、そんなわけで----。

「出発っ!」

 と、ハルヒが叫び、

「やっほーっ」

 と、鶴屋さんが同調し、

「現場は絶好のスキー日和だそうです。今のところは」

 古泉が天候情報を伝え、

「スキーですかぁ。雪の上を滑るスキーですよね?」

 朝比奈さんがマフラーにくるまった顎を上げ、

「…………」

 長門は片手に小さなカバンを提げたままピクリともせず、

「わぁい」

 と、俺の妹が飛び跳ねた。

 早朝の駅前である。これから列車に乗って、さらにいろいろ乗り継ぎ、目的地である雪山到着予定時刻は昼過ぎとなっている。それはいいんだが、どうしてここに予定せざる人員として俺の妹がいるのかというと……。

「いいじゃん、ついて来ちゃったのはしかたがないわ。ついでよ、一緒に連れていってあげたら一瞬で話はすむわ。邪魔にはならないでしょ」

 ハルヒは前屈みになって妹に笑いかけ、

「どうでもいい奴なら追い返したところだけど、このあんたと違って素直な妹さんなら全然オッケー。映画にも出てくれたしさ。シャミセンの遊び相手にちょうどいいじゃない」

 そう、この旅行には俺ん家の三毛猫までが付属しているのだ。これに関してはSOS団の合宿計画担当者のセリフを聞こう。

「推理劇のトリックに猫が必要だったんですよ」

 猫は知っていたとか、そういうのか。

 自分の荷物の上に座っていた古泉は、

「適当な猫でもよかったのですが、映画ではけっこうな役者ぶりを見せてくれましたしね。その名演をもう一度というわけです」

 今のシャミセンはただの喋らない家猫だぜ。演技のほうは期待しないほうがいい。俺は妹と鼻面を付き合わせているハルヒを眺めて、

「おかげで出かけに見つかっちまった」

 なにぶん朝も早かったし、母親には固く口止めしておいたから安心しきっていた。妹も俺がハルヒたちと旅行に行くなんてまったく気づいていなかったろう。だが意外な落とし穴は最後に口を開いた。俺が自分の部屋で、まだ夢見心地のシャミセンを猫用キャリーに収納しているところに、なぜか妹が入ってきたのだ。どうやらトイレに起きて帰ってきたはいいが寝ぼけて部屋を間違えたらしい。

 その後の展開は一本道だ。突然、妹はパッチリと目を見開き、

「シャミをつれてどこに行くの? その格好は? 荷物は?」

 うるさいのなんの。そして小学五年生十一歳の我が妹は夏よりもパワーアップした暴れぶりをひとしきり見せた後、両手両足で俺のカバンにしがみつき、岩場に貼り付いた変な色した貝のように離れようとしなかった。

「一人増えるくらいなら余裕ですよ」と古泉は微笑む。「ましてや子供料金、さして予定は狂いません。僕も涼宮さんに同感ですね。ここまで来て追い返すのは忍びませんから」

 ハルヒとじゃれ終えた妹は、今度は朝比奈さんに飛びついて豊かなふくらみに顔を埋めた後、じっと黙って立っている長門の膝に抱きついてよろめかせ、最終的に大笑いをする鶴屋さんに振り回されてきゃいきゃい言っている。

 妹でよかった。これが弟なら即刻裏通りに連れ込んでいるところだ。

 

 雪山行きの特急でも妹の勢いは衰えず、俺たちの間を飛び回っては無駄に元気を振りまいていた。今からこんなに飛ばしていては終盤に息切れすること相違なく、また俺が眠りこける妹を背負って歩くハメになりかねないが注意してもそれこそ無駄だ。妹と同等くらいにハルヒと鶴屋さんも高レベルなテンションを維持しているし、少し控え目に朝比奈さんも何だかぽわぽわと高揚しているらしい。長門ですら、読もうと開いていた文庫本をあきらめたようにカバンにしまい、妹に静寂な視線を注いでいた。

 俺は窓際に頬杖をつき、高速で流れていく風景をぼんやりと眺めている。横の通路側に古泉が座っていて、ハルヒたち女グループは俺たちの前の席にいた。向かい合う形に座席の方向を変え、今は五人でUNOをやっている。あまり騒ぐなよ。他の乗客に迷惑だからな。

 つまはじきにされた俺と古泉は列車が走り出して十分ほどババ抜きをしてみたが、虚しくなってすぐにやめた。何が悲しくて男二人で道化の押し付け合いをしなくてはならんのか。

 ならばこれから俺の目を享楽の宴に誘ってくれるであろう、まだ見ぬ朝比奈さんのスキーウェア姿でも妄想していたほうがまだしも建設的である。そう思った俺が二人きりのゲレンデで仲よく滑り降りるという状況にどうしたら持っていけるかと考えていたら、

「にゃ」

 足元のキャリーバッグがごそごそと音を立て、その隙間からヒゲを出した。

 例の映画騒動が終了してから、シャミセンは元ノラ猫とは思えないほどおとなしく手のかからない猫に変わり果てている。エサの時間が来るまでぼうっと待っているし、無闇にじゃれついてくることもなく、どうやらこいつの欲求の中で最大の地位を誇るのは睡眠欲らしい。今朝方にキャリーに入れて以来ずっと眠り続けていたのだが、いくら怠惰な猫でも飽きがくるということはあるようだ。退屈そうに蓋の辺りを掻いている。もちろん車内で出すわけにはいかない。

「もうちょっと我慢しろ」

 俺は足元に言い聞かせた。

「着いたら新品のカリカリをやる」

「にゃ」

 それだけで解ったようにシャミセンは再びおとなしくなった。古泉が感心したように、

「最初、喋り出したときはどうなることかと思いましたが、その猫はアタリでしたね。いえ、オスの三毛猫というラッキー性だけではなくて。ちゃんと物の解った、いい猫です」

 群れていたノラ猫たちの中からこいつをランダムに取り上げたのはハルヒだった。それが数万分の一の確率でしか発生しない染色体異常だったのだから、いっそハルヒに宝くじでも買わせてみたらどうだ。少しは活動費のたしになるかもしれんぞ。いつまでも文芸部の部費を横流ししているのは、そろそろ俺もどうかと思うぜ」

「宝くじですか? それはそれで涼宮さんのことですから、ややこしいことになりそうな気もしますね。もし彼女が億単位の金を手に入れたら何を始めると思います?」

 あまり考えたくはないが、米軍払い下げのセコハン戦闘機くらいは買い付けてきそうだ。単座ならまだいい、もしそれが複座だったりしたら、後部シートに座ることになるのが誰かなんて考えるまでもない。

 あるいは気前よく宣伝費に使っちまうかだな。ゴールデンタイムのバラエティを見ていたら突如として『この番組はSOS団の一団提供でお送りしています』なんていうテロップが流れ出し、俺たちが出演するコマーシャルフィルムが全国のお茶の間に届けられている光景を想像して背筋が寒くなった。ハルヒにプロデューサー的ポジションを与えるとロクなことをしでかさないのは、幼稚園児に株の運用を任せて失敗する確率よりも解りきったことだ。

「もしかしたら人類にとって非常にタメになることを考え出してくれるかもしれませんよ。何かの発明資金にあてるとか、研究所でも作るとかね」

 古泉は希望的観測球を打ち上げるが、ヘタな博打はしないほうがいいものだ。なんたってこっちの賭けるものがデカすぎる。リスク計算できるヤツなら躊躇うに決まっているさ。それこそよほどのことがない限りな。

「コンビニで当たり付きアイスでも買わせよう。それで充分だ」

 俺は再び風景を楽しみ始め、古泉は背もたれに深く身を沈めて目を閉じた。向こうに着いたら大いそがしだろうから、今のうちから体力の温存を図るのは正しき選択だ。

 列車の外の様子はどんどん田舎度を増していき、トンネルをくぐり抜けるたびに雪景色度もレベルアップする。それを眺めているうちに、俺も心地よい眠りに就いていた。

 

 そうやって列車の旅を終え、荷物を抱えて駅からまろび出た俺たちを出迎えてくれたのは、快晴の青と積もりまくった雪の白のツートンカラー、それからいつか見た覚えのある二人組みのバカ丁寧な挨拶だった。

「ようこそ。お待ちしておりました」

 深々と腰を折るザ・ベスト・オブ・執事役と、

「長旅お疲れ様です。いらっしゃいませ」

 年齢不詳のあやしい美人メイドさんである。

「どうも、ご苦労様です」

 しゃしゃり出た古泉がその二人に並んで、

「鶴屋さんは初めてですね。こちらが僕のちょっとした知り合いで、旅行中身の回りの世話をお願いすることになる荒川さんと森園生さんです」

 夏の孤島とまるで違っていない。三つ揃いを着こなしたロマンスグレーな荒川氏と、質素ながらメイド以外のなんでもないエプロンドレスがハマっている森さんは、

「荒川です」

「森です」

 ぴったりのタイミングで頭を下げた。

 この突き刺すような寒さの中コートも羽織っていないのは演出の一環か、それとも演技といえども役に成りきっている職業意識からくるものか。

 鶴屋さんは重そうなカバンを軽々と振り回しながら、

「やあ! こんにちはっ。古泉くんの推薦なら疑いようがないよっ。こっちこそよろしくねっ。別荘も好きに使っちゃっていいよ!」

「恐れ入ります」

 荒川氏は慇懃にまた一礼し、やっと顔を上げて俺たちに渋い笑みを見せた。

「皆様も、お元気そうで何よりです」

「夏には失礼しました」

 森さんが緩やかな微笑みを浮かべながら言って、俺の妹を見てさらに微笑みを柔らかくする。

「まあ可愛いお客さんですね」

 招かざる客、俺の妹は熱湯に落とした乾燥ワカメよりも早く素に戻り、「わぁい」とか言いながら森さんのスカートに飛びついた。

 ハルヒは満面の笑みをたたえながら一歩進んで雪を踏みしめ、

「久しぶり。この冬合宿も期待してるわ。夏は台風のおかげで少し遊び足りなかったけど、そのぶんは冬で収支を合わせるつもりだから」

 それから俺たちへと振り返り、飛車が敵陣で龍成ったような元気さで、

「さ、みんな。こっから気合入れて全速力で遊ぶわよ! この一年の垢を全部落として、新しい年を迎える頃にはまっさらになるくらいのつもりで行くわ。悔いの一欠片だって翌年には持ち込んだりしちゃダメ。いいわね!」

 それぞれのやり方で俺たちは返答した。鶴屋さんは「ゆえーいっ!」と片手を突き上げ、朝比奈さんはちょっと腰を引かせながらオズオズとうなずき、古泉はあくまでにこやかに、長門はそのまま無言で、妹は森さんにまとわりついている。

 そして俺は、見つめていると目を痛めそうなくらいに輝くハルヒの笑顔から目を逸らして遠くへと視線を飛ばした。

 嵐が来るなんて予想もつかないほど、雲一つない青空だ。

 この時までは。

 鶴屋家の別荘へは二台の四駆に分乗して行った。ドライバーは荒川さんと森さんであり、と言うことは、森さんは少なくとも四輪の免許取得者に足りる年齢だということだけは推理できる。ひょっとしたら同年代じゃないかと疑っていたから、それだけでも俺にはけっこうな収穫だ。いや別に深い意味はないんだ。働き者のメイドなら朝比奈さん一人で間に合っているから森さんに格別の思いが発生しているわけではない。ここ重要。

 どこを見ても真っ白な風景の中、車の旅はさほど長くは続かなかった。十五分も走っただろうか、俺たちの乗るゴツい車はペンション風の建物の前に停まった。

「いい雰囲気のとこじゃないの」

 真っ先に飛び降りたハルヒが雪を踏みしめながら満足感を漂わす感想を述べた。

「ウチの別荘の中じゃ一番こぢんまりしてるんだけどねっ」と鶴屋さん。「でも気に入ってんだっ。これくらいのが一番居心地いいのさ」

 駅からそんなに離れておらず、近くのスキー場には歩いていける距離にあるという立地条件だけでもけっこうな値段になりそうだし、おまけに鶴屋さんはこぢんまりなどと本気で言っているらしいが、それは彼女の自宅である日本家屋と比べてのこぢんまり具合なので一般的な感性を代表して言わせてもらえば、夏に訪れた孤島の別荘と遜色ないデカさだった。いったい鶴屋家はどんな悪いことをしてここまで羽振りのいい建物を建てることができたのだろう。

「どうぞ、皆様」

 先導してくれるのは荒川執事である。彼と森さんの二人は、鶴屋さんから許可と鍵を得て俺たちに先行すること一日、昨日にはここに到着し準備を整えていてくれたのだという。古泉の周到な根回しによるところ大であり、細かいことを気にしない鶴屋さんと鶴屋家の人々のおおらかな性格もなんとなくうかがえる話だった。

 全面木造、本気でペンションとしてオープンしたら毎シーズン満員御礼になりそうな鶴屋家冬の別荘にありがたく入りながら、俺はちょっとした予感を抱いていた。

 何だかよく解らない。しかし、その漠然とした予感は確かに俺の頭の中を通り過ぎて行ったのだ。

「ん……?」

 別荘の内装に感心しつつ俺は周囲を見回した。

 ハルヒは鶴屋さんを褒め称える言葉を口にしながら笑いまくり、鶴屋さんも朗らかに笑い返している。古泉は荒川さんと森さんの三人で何かを話し合っていた。俺の妹はさっそくシャミセンをキャリーバッグから取りだして抱きしめ、朝比奈さんは持っていた荷物を床に下ろしてホッとしたように息を吐き、長門はどこを見ているのか解りにくい視線を空中に固定している。

 どこにも変なところはない。

 俺たちはこれから合宿とは名ばかりの単なる遊興に数日を費やし、また再び元の位置に戻って日常の続きをエンジョイすることになる……。

 はずだった。

 発生することが決まっている殺人事件劇はまさしく劇であって真剣なものではなく、あらかじめ解っているんだからそれでハルヒの情動が揺れ動くこともない。長門と朝比奈さんの出番もないだろう。古泉が異能の力を発揮する場も生じない----。

 言い方にもよるが、これから起こるのはデキレース。先の見えない怪しい殺人事件ではないのである。部屋をこじ開けて入ったらカマドウマが出てきたりするような予想を超える事態になるとも思えない。

 しかし何だろう。違和感としか言いようのないものが定例句の妖精のように通り過ぎた感覚がした。そうだな、夏休み後半が延々とループしていたのに気づかないまま、だが妙な感じだけは覚えていたあの雰囲気に似ている。ただしデジャブというわけでもなく……。

「ダメだ」

 粘液にまみれた魚をつかんだみたいに、その感覚はするりと手の内から消え去った。

「気のせいか」

 俺は首を振り、カバンを担いで別荘の階段を上り始めた。割り振りされた自分の部屋に向かうためである。豪華と言うほどではないが、それは俺に金目のモノを見る目がないからだろう。シンプルに見えてこの階段の手すりも聞いたら仰天するくらいの材料費と人件費がかかっているに違いない。

 寝室の並ぶ二階廊下で、

「キョンくんさ」

 鶴屋さんが笑顔で近寄ってきた。

「妹ちゃんと同じ部屋でいいかい? ホント言うと用意していた部屋数がギリなんだよねっ。あたしが子供の頃に使っていた屋根裏部屋を開けてもいいけど、それじゃ寂しいでっしょ?」

「別にあたしの部屋でもいいわよ」

 ハルヒが首を突っ込んできて、

「さっき部屋を見てきたけど、広いベッドだったわ。三人川の字で寝ても平気なくらいよ。やっぱここは女同士で相部屋になるのが健全でしょ?」

 健全も何も、妹と同じ部屋でも俺は別にどうだっていいことだ。朝比奈さんと同室になったらかなりの精神的急勾配が発生するだろうが、妹とシャミセンの違いなんか俺にはまったく感じない。

「ね、どう?」

 ハルヒが訊いたのはシャミセンを肩にしがみつかせている妹へだ。妹はケラリとした笑みで、まるで雰囲気を無視した発言をした。

「みくるちゃんとこがいい」

 

 というわけで妹は朝比奈さんの部屋にまんまと潜り込み、俺の部屋にはシャミセンが残されることとなった。せっかくなのでこの猫も誰かに貸与したかったのだが、

「遠慮しておきますよ。あなたと違って僕は猫が喋り出すことに耐性がありませんから」

 古泉はやんわり否定し、長門は三十秒ほど三毛猫の眉間を見つめていたが、

「いい」

 短く言って背を向けた。

 まあ、この別荘の中を適当にウロウロさせておけばいいだろう。知らない家に連れてこられたというのにシャミセンは我が家と変わりない顔をしてベッドに飛び乗り、列車の中でさんざんねただろうにまた居眠りを始めている。ついでに俺も横になってしまいたかったが、そんな休憩時間はスケジュールに組まれておらず、ハルヒの号令に従って俺たちは着いたそうそうに階下へ集合することになった。

「さあ、行くわよ。スキーしに!」

 さっそくすぎるような気もしたが、ハルヒ的ラストスパート兼スパークのために無駄に使える時間は一秒たりともないのだ。おまけに根っから元気なのは鶴屋さんもであり、ひょっとしたらハルヒ以上にハイな彼女との相乗効果で行動力までダブルになっている気もするね。

 スキーウェアと板は古泉がどこからかレンタルしてきた。いつのまに俺たちの採寸をしたのかが不思議だ。急な参加となった妹のぶんまであって、それまたピッタリなのである。『機関』とやらのエージェント(想像するに黒服黒サングラス)が北高や小学校に忍び込み、保健室の棚から生徒の身体情報をあさっている光景を幻視してみる。うむ、後で朝比奈さんのスリーサイズを尋ねておこう。知ったところでどうするわけでもない情報ではあるが、これも知的好奇心というやつだ。

「スキーも久しぶりだわ。小学校のときに子供会で行ったきりかしら。地元じゃ全然降らないもんね。やっぱり冬は雪だわ」

 そりゃ降雪地方でない奴特有の言い分だな。雪なんざ降らなきゃいいと思っている人々だって中にはいるぜ。特に戦国時代の上杉謙信なんかはそうだったと俺は分析している。

 スキー板を担ぎ、歩きにくいブーツで行軍する俺たちは、やがて見事なゲレンデに辿り着いた。ハルヒと同じく俺もスキーは久々だ。中学以来じゃないかな。妹は初めてのはずで、どうやら朝比奈さんもそうらしい。長門も未経験者に違いないがプロスキーヤー以上の腕前を見せることを俺は半ば信仰していた。

 リフトで登っていく色とりどりのスキーウェアがポツリポツリと目に入る。思っていたより人は少ないなと思っていると鶴屋解説が入った。

「割と穴場なとこなんだよっ。知る人ぞ知る静かなスキー場さ。だってここ、十年前まであたしんとこのプライベートゲレンデだったからねっ」

 今は開放しているけど、と補足する鶴屋さんの言葉にはまるで嫌みなところがない。世の中にはこういう人も実際にいるのである。見栄えもよければ性格も金回りも家柄もいいという、もうどうしようもないようなお人がね。

 リフト乗り場付近でスキーを履いたハルヒが言った。

「どうする、キョン。あたしはこのまま最上級コースに出ちゃいたいけど、みんなちゃんと滑れるの? あんたは?」

「少し練習させてくれ」

 俺は板をブーツに装着したはいいが、三十センチおきにコケている妹と朝比奈さんを見ながら言葉を返した。

「ますは基本を教えとかないと、最上級どころかリフトに乗るのも一苦労しそうだ」

 早くも雪まみれの朝比奈さんは、まるでスキーウェアを着るために生まれて来たような似合いぶり。いったいこの人が着て違和感を発生させるような衣服がこの世に果たしてあるのだろうかとたまに思う。

「じゃさっ。あたしがみくるを鍛えるから、ハルにゃんは妹ちゃんを頼むよ! キョンくんたちは適当にそのへん滑っといてっ」

 願ってもない提案だ。俺もスキー勘を取り戻すにはしばらくかかりそうである。ふと横を見ると、

「…………」

 無表情にストックを握りしめた長門が、つい~っと滑り出していた。

 

 結局、妹はてんでモノにならなかった。ハルヒの教え方に難があるんじゃないか?

「足を揃えて思いっきりストックをガーンとやるとピューンと行くから、そのままドワーって気合で行って、止まるときも気合で止まるの、オリャーっ。これで何とかなるわ」

 何ともならなかった。気合でどうにかできるんならこの上なくエコな自動車が開発できるだろうが、あいにく妹程度の気合ではコケる間隔が三十センチから三メートルになったくらいの違いだ。それでも妹は無性に楽しげで、きゃらきゃらとコケまくって雪をむしゃむしゃ食べていたから結果はどうであれ娯楽としては正しいのかもしれない。腹壊すからやめとけ。

 一方の朝比奈さんは元々才能があったのか、鶴屋さんがハイレベルなインストラクター的手腕を備えていたのか、ものの三十分でスキースキルを会得していた。

「わっわっ。楽しい。わぁ、すごい」

 真っ白な背景の中、笑顔で滑っている朝比奈さんの姿は、長くなるので中略するが短くまとめると、ハイカラな雪女の末裔がおっかなびっくり現世に現れたくらいの画面映えする芸術性を帯びていた。これだけでも即座にUターンして帰路についてもオッケーてなもんだ。その前に写真を撮っておく必要はあるだろうが。

 スキーの自主錬をする俺や古泉を横目に、ハルヒはいつまで経っても上達しない妹を考え込むような顔で見ていた。自分は一刻も早く山の高いところにいって直滑降を試したいが、この小学五年生を連れて行くわけにはいかない、みたいな顔つきだ。

 たぶん鶴屋さんも同じことを思ったのだろう、

「ハルにゃんたちはリフト乗ってっちゃっていいよ!」

 鶴屋さんはコケたまま嬉しそうに手をジタバタさせている妹を救い起こしながら、

「この子はあたしが手ほどきしとっから! なんだったらここで雪ダルマでも作って遊んどくよっ。ソリでもいいかなっ。どっかそのへんで貸してくれると思うしっ」

「いいの?」

 ハルヒは妹と鶴屋さんを見ながら、

「ありがと。ごめんね」

「いいっていいって! さ、妹くんっ。スキー教室と雪ダルマとソリ滑りのどれがいい?」

「雪ダルマくん!」

 と、妹は大声で答え、鶴屋さんは笑いながらスキーを外した。

「じゃ、ダルマくんだっ。でっかいの作ろう、でっかいのっ」

 さっそく雪玉を作り始めた二人に、朝比奈さんも混じりたそうな表情で、

「雪ダルマですかあ。あぁ、あたしもそっちのほうがいいような……」

「だーめ」

 すかさずハルヒが朝比奈さんの腕をロックしてニッコリと、

「あたしたちは頂上まで行くわよ。みんなで競争するの。最初に麓まで降りてきた者に冬将軍の地位を授けるわ。がんばりましょ」

 たぶん自分か勝つまでやめないつもりだ。それは別にいいが、いきなり頂上行きは俺もちょいとビビリが入る。段階的に上げていこうぜ。

 ハルヒはふんと小鼻を鳴らして、

「なっさけないわねえ。こんなの、ぶっつけでやるのが一番面白いのに」

 とか言いつつも珍しく俺の案を採用した。とりあえず中級コースから行って、メインイベントの最上級難関はオーラスに取っておくことにする。

「リフト乗りましょ。有希ーっ、行くわよっ。戻ってきなさぁい」

 周囲をぐるぐる回るように弧を描いていた長門は、その声を合図にターンすると雪を削るようにしてぴたりと俺の横に止まった。

「競争よ、競争。リフトは人数分のフリーパスをもらったから日が暮れるまで……いいえ! 日が暮れても何度でも乗れるわ。ささ、みんなついてきて」

 言われなくてもそうするさ。たとえ俺が雪ダルマ制作班に参加希望を表明したところで許可されはしないだろうし、古泉はともかく長門や朝比奈さんをハルヒの好き勝手に付き合わせてそのまま放っておいた日には、ブリザードを通り越して氷河期が前倒しされかねん。ちゃんと客観性を持った人徳者がついていないといかん。俺に誇れるほど立派な客観性があるかどうかは、まあイマイチ解ったもんでもないし古泉あたりがたちどころに幾つもの理屈で反論しそうだが、俺は気にすることを放棄した。なぜなら、そんなのはとっくの昔にどうだっていいことになっていたからだ。

 メンバー全員が元気な姿でここにいるし、雪は申し分のないパウダースノーだし、澄んだ空はどこまでも青い。その空と同じくらいの晴れやかな顔で我らの団長が手を差し伸べた。

「このリフト二人乗りなのね。公平にグッパーで決めましょう」

 

 さて。

 その後の展開で特筆すべきことはあるまい。別行動の鶴屋さんと妹を残し、SOS団正規メンバーはリフトに乗ってなだらかな勾配を上がっていき、ごく普通にスキーを楽しんだ。麓まで滑り降りるたびに雪ダルマは形をなすようになっていき、鶴屋さんと妹はまるで同年代の友人のように明るく笑いあいながらダルマにバケツをかぶせたり目鼻をつけたりとエンジョイしている。早くも二体目の雪ダルマに取りかかろうとしていたのが俺の見た二人の最新の記憶だ。

 

 そして、最後の記憶になるかもしれなかった。

 

 何度目のスキー大回転競争だっただろう。

 順調に滑り降りていた俺たちは、いつのまにやら……これが本当にいつの間だったのか全然解らないんだ。いつしか、突然、突如として、吹雪のまっただ中にいた。視界はすべてホワイトアウト、一メートル先に何があるのかも確認できない。

 びゅうびゅうと吹き付ける強風が雪の欠片を乗せて身体にバンバンぶち当たっている。冷たさよりも痛みが先に来るほどだ。剥き出しの顔がたちまち凍り付き、息をするのも下を向かねばならないような、とんでもないブリザードだった。

 何の予兆もなかった。

 先頭を切って滑り降りていたハルヒがスキーを停め、競い合っていた長門も急停止して、朝比奈さんと一緒にゆっくり滑っていた俺と最後尾の古泉が追いついたとき----。

 すでに吹雪はここにあった。

 まるで誰かが呼び寄せたように。

 

 …

 ……

 ………

 以上で回想を終わる。これで俺たちが雪山をのたのた歩いている理由が解っていただけただろうか。

 なんせ視界がきかないもんだから、数メートル先に断崖絶壁があっても気づかず落ちる危険性がある。そんな崖などは確かなかったはずだが、地図を無視していきなり出現しても大して不思議ではなく、ジャンプ台もないのにラージヒルに挑みたくもない。さすがに崖は大げさとしても雪で白く迷彩された樹木に正面衝突してはヘタすりゃ鼻の骨くらいは折れるだろう。

「俺たちは今どこを歩いてるんだ?」

 こういうときに頼りになるのは長門だった。俺としては不本意なのだが命には代えられない。そうやって長門の正確無比なナビゲーションに従って山を下りているというのに、すでにそのまま何時間も経過しているのは最初に述べたとおりだ。

「変ねえ」

 ハルヒの呟きにも不審な香りがこもり始めている。

「どうなってんの? いくらなんでもここまで人の姿を見かけないなんておかしいわ。いったいどんだけ歩いたと思ってんのよ」

 その視線が先頭の長門に向いている。長門が降りる方向を間違えたのではないかと疑っている顔だ。そうとしか思えない状況ではある。ここは秘境でも何でもないスキー場なのだ。だいたいの見当を付けて斜面を道なりに降りていけば、自ずと麓に到着しないとおかしい。

「しょうがないからカマクラ作ってビバークでもする? 雪が小やみになるまで」

「待て」

 俺はハルヒを呼び止め、雪を掻き分けるようにして長門の横に並んだ。

「どうなってる?」

 ショートヘアを凍気でごわごわした無表情娘は俺をゆっくりと見上げて、

「解析不能な現象」

 小さな声でそう言った。黒目勝ちの目は真摯なまでにまっすぐ俺に向けられている。

「わたしの認識しうる空間座標が正しいとすれば、我々の現在位置はスタート地点をすでに通り過ぎた場所」

 何だそりゃ。それじゃあ、とうに人里に入ってなければいかんだろう。こんだけ歩いてんのにリフトのケーブルやロッジの一つも見なかったぞ。

「わたしの空間把握能力を超えた事態が発生している」

 長門の冷静な声を聞きながら、俺は大きく息を吸った。舌先に当たった雪の結晶が蒸発するように溶けていき、発する言葉も同様に霧散した。

 長門の能力を超えるような事態?

 妙な予感はこれだったのか。

「こんどは誰の仕業だ」

「…………」

 長門は思考するように沈黙し、叩きつける雪の乱舞を瞬きもせず見つめた。

 俺たちは全員、腕時計も携帯電話も持たずにゲレンデに乗り出していたから、現在時刻もよく解らなくなっていた。鶴屋家の別荘を出たのは午後三時頃だったかな。それから何時間も経っているに違いないのに、曇りまくった空はまだぼんやりと明るい。しかし厚い雲と吹雪のおかげで太陽の位置が全然解らん。ヒカリゴケに覆われた洞窟の中にいるような不可解な明るさで、思わず俺は親知らずのさらに奥が金気臭い痛みを訴え始めるのを感じた。

 行けども行けども雪の壁が立ちはだかり、天蓋は灰色一色。

 どこかで体験したような光景とちょっと似ている感じがしないでもない。

 まさか----。

「あっ!」

 すぐそばでハルヒが叫び声を上げ、俺は心臓が肋骨を突き破って飛び出すかと思うくらいに驚いた。

「おい、ビビらすなよ。デカい声上げやがって」

「キョン、あれ見て」

 ハルヒが風にも負けず一直線に指差す先----。

 そこに小さな光が点っていた。

「何だ?」

 目をこらす。雪交じりの風のせいでまるで瞬いているように見えるが、光源自体は移動していない。交尾を終えた蛍みたいに弱った光だ。

「窓から漏れる光だわ」

 ハルヒは声に喜色を浮かべながら、

「あそこに建物があるのよ。ちょっと寄らせてもらいましょう。このままじゃ凍死しそう」

 その予言はこのままいけば事実になるだろうな。だが建物だと? こんなところに?

「こっちよ! みくるちゃん、古泉くん。しっかりついてきなさい」

 人間除雪車となったハルヒがザクザクと道を造って先頭を進み始める。寒さと不安と疲労感から来るものだろう、ガタガタ震える朝比奈さんをかばうように支えながら、古泉はハルヒの後を追った。すれ違いざまに囁いたセリフが俺の心をより寒くさせる。

「明らかに人工の光ですね。ですが少し前まであんなところに光なんかありませんでしたよ。これでも周囲に目配りしていましたから確かです」

「…………」

 長門と俺は黙ったまま、スキー板で雪を蹴散らして道を作ってくれているハルヒの背中を眺めた。

「早く早く! キョン、有希! はぐれちゃダメよ!」

 他にどうしようもない。氷づけとなって百年後くらいのニュース記事になるよりは、少しでも生存の可能性に賭けたほうがいい。それが誰かの仕組んだ罠への入り口なんだとしても、他に道がないのならそこを歩いていくのが唯一の方向だ。

 俺は長門の背を押して、ハルヒが作り出した雪道を歩き始めた。

 

 近づくにつれて光に正体が明らかになってくる。ハルヒの人並み外れた視力を賞賛してやってもいいな。それは紛うかたなく窓から漏れ出している室内灯の光だった。

「洋館だわ。すごく大きい……」

 ハルヒは一旦立ち止まり、顔を垂直に向けて印象感想をおこなってから再び歩き出した。

 俺もまた巨大な建物を見上げ、ますます暗澹たる感情を抱く。白い雪と灰色の空の中で、その館は影絵のようにそびえ立っていた。どこか禍々しく思ったのは見慣れない外見のせいだけではなさそうだ。館というより城に近い威容を誇り、屋根の上には用途不明な尖塔がいくつも突き出していて、光の加減か外装がやけに黒っぽい。そんな建物が雪山の直中に建っているのだ。これが怪しくないと言うのなら、全国の辞書の怪しいという単語の項目をすべて書き換える必要がある。

 吹雪の雪山。遭難中の俺たち。方向も見失って歩いている最中に発見した小さな灯火。そして辿り着いたのは奇妙な西洋風の館----。

 これだけ条件が揃ってるんだ。次に出てくるのは今度こそ怪しい館の主人か、それとも異形の怪物か? で、以降のストーリはミステリかホラーのどちらに分岐するんだ?

「すいませーんっ」

 早くもハルヒは玄関扉に声を張り上げている。インターホンもノッカーもない。無骨な扉がハルヒの拳によって叩かれた。

「誰かいませんか!?」

 殴打を繰り返すハルヒの後ろに続き、俺はもう一度館を見上げた。

 それにしても、あまりにも用意された感じがまとわりつく状況、設定と舞台装置だ。これが古泉の仕掛けでないのは解る。これで館の扉が開いたら荒川さんと森さんが最敬礼してたら最高なんだが……。長門が自分で自分の能力を超えていると証言したことからも、そうなってくれそうにないのは明らかだった。古泉たちが長門を出し抜けるとは思えないし、仮に長門を抱き込んでドッキリの一部に荷担させているのだとしても、長門は俺にだけは嘘を言わない。

 ハルヒは猛吹雪にも負けないくらいの大声を張り上げていた。

「道に迷っちゃって! 少しでいいから休ませてもらえますか! 雪の中で立ち往生して困ってるんですっ!」

 俺は振り返って全員がいることを確認した。長門はいつものビスクドール的表情でハルヒの背中を見つめている。朝比奈さんはビクついた顔で自分の身体を抱きしめ、くしゅんと可愛くクシャミしてすっかり赤くなっている鼻先を擦る。古泉の顔面からもニヤケスマイルは消えていた。腕組みに傾げた首、やや苦い物を噛んでいるような表情と言う思案顔をした古泉は、扉が開いたほうがいいか閉ざされたままのほうが迷っているようなハムレット的雰囲気をまとっていた。

 ハルヒの立てる騒音はこれが俺の家のあたりならとうに近所迷惑レベルに達している。にもかかわらず、扉の内側からは何の返答もない。

「留守なのかしら」

 手袋を脱いで拳に息を吐きかけながらハルヒは恨めしそうに、

「明かりがついているから誰かいると思ったんだけど……。どうする、キョン」

 どうすると言われても即座に回答しかねる問題だな。トラップの匂いがする場所に勢いよく飛び込むのは直情径行な熱血ヒーローの役回りだ。

「雪と風さえ防げる場所があればいいんだが……。近くに納屋とか物置小屋がないか?」

 しかしハルヒは離れを探すような回りくどいことをしなかった。手袋をはめ直した手が、雪と氷のこびりついたドアノブを握るのを俺は見た。祈るような横顔が、ふっと息を吐く。真剣な面持ちのまま、ハルヒはゆっくりノブをひねった。

 止めるべきだったのかもしれない。最低、長門のアドバイスを聞いてから判断すべきだったような気もする。だが何もかも時遅く----。

 まるで館そのものが口を広げたように。

 

 扉が開いた。

 

 人工の灯火が俺たちの顔を明るく照らす。

「鍵かかってなかったのね。誰かいるんだったら、出てきてくれてもよさそうなのに」

 ハルヒはスキーとストックを建物の壁にもたせかけると、先陣を切って中に飛び込んでいき、

「どなたかーっ! いませんかっ。お邪魔しますけどーっ!」

 しかたない。俺たちも団長の行動を模倣することにした。最後に入ってきた古泉が扉を閉め、何時間ぶりかに冷気と寒気と耳障りな風切り音とに一次的別れを告げることができた。やはりホッとしたのだろう、

「ふぇー」

 朝比奈さんがペタリと座り込んだ。

「ねえ、誰もいないのーっ!」

 ハルヒの大声を聞きながら、明るさと暖かさが骨に染み渡ってくるのが解った。ちょうど真冬の外から戻ってきた直後に熱い風呂につかったような感じだ。頭とスキーウェアに積もっていた雪がたちまち溶けて床に水滴を作っている。暖房が効いていた。

 しかし、人の気配はない。そろそろ誰かが出てきて迷惑そうな態度を隠さずハルヒを追い払ってもよさそうな展開だったが、呼びかけに応じてやってくる登場人物は皆無だった。

「幽霊屋敷じゃないだろうな」

 俺は呟いてその館の内部を見回した。扉を開けてすぐが大広間になっている。高級ホテルのロビーと言ったら話が早いか。吹き抜けになっている天井はやけに高いところにあって、これまたやけに巨大なシャンデリアが煌々たる明かりを灯していた。床に敷かれているのは深紅の絨毯だ。外装は奇怪な城のようでも中身はかなり現代的で、真ん中には幅のある階段が二階の通路へと続いている。これでクロークさえあれば本当にホテルに来たのだと錯覚するほどだ。

「ちょっと探してくるわ」

 待てども現れない館の住人に業を煮やしたのはハルヒだった。びしょぬれのスキーウェアから脱皮するように這い出すと蹴り飛ばすようにスキーブーツも脱ぎ捨てて、

「非常事態だからしょうがないと思うけど、勝手に上がり込んじゃって後から文句言われるのもイヤだしさ。誰かいないか見てくるから、みんなはここで待ってて」

 さすが団長と言うべきか、いかにも代表者チックなことを言うと、ハルヒは靴下のまますぐさま走り出そうとした。

「待て」

 止めたのは俺だ。

「俺も行く。お前一人じゃどんな失礼をやらかすか不安だからな」

 大急ぎでウェアとブーツを取り外す。途端に身体が軽くなった。吹雪の山中を歩きづめることで蓄積した疲労感を、まるごと衣服に託して脱ぎ去った気分だ。俺はかさばる衣装を手渡しながら、

「古泉、朝比奈さんと長門を頼む」

 雪山脱出の役にまったく立たなかった超能力野郎は唇をひん曲げるような笑みを浮かべて会釈で答えた。俺を見上げる朝比奈さんの心配そうな瞳と、黙々と立ちつくす長門を一瞥してから、

「行こう。こんだけ広いんだ。奥のほうまで声が届いていないだけかもしれん」

「あんたが仕切んないでよ。こう言うときはね。リーダーシップを取るのは一人にしたほうがいいの! あたしの言うとおりにしなさい」

 負けず嫌いみたいなことを言いつつハルヒはさっと俺の手首をつかんで、待機に回った団員三人に、

「すぐに戻ってくるわ。古泉くん、二人をお願いね」

「了解しました」

 古泉は普段の笑みに戻ってハルヒに答え、俺にもうなずきかけやがった。

 たぶん、こいつは俺と同じことを考えている。

 この館の隅々まで捜索しても人の姿を発見することはできない。

 なぜだか俺にはそんな予感があった。

 

 まずハルヒは階上の探索行を選んだ。広間の大階段を上がると、左右に分かれる通路が長々と延びており、通路の左右両側にちょっと数える気にならないほどの木製扉がついている。ためしに一つ開けてみる。すんなり開いた扉の中はこざっぱりした洋式の寝室だった。

 廊下の両端がさらに階段になっていて、俺とハルヒはもう一階上を目指した。行く先はハルヒ任せだ。

「あっち。次、こっち」

 ハルヒは片手で指さし確認しながら、もう一方の手で俺の手首を引いていた。新たな階に到着するたび「誰かいますか!」と至近で叫ぶ大音声に耳をふさぎたくも思うが、それすらままならないね。俺はハルヒの指が示すまま、ただ付き従うだけである。

 数が多すぎるのでランダムに扉を開け放ち、そのすべてが同じような寝室でしかないことを確認しながら俺たちは四階までやって来た。館の通路は常夜灯なのか、どの階も明かりに満ちている。

 さて次はどの扉を開けようかと目で選んでいたら、

「こうしていると夏を思い出すわね。船を確認しに外に出たときのこと」

 ……ああ、そういうこともあったな。今と同じように俺はハルヒに引きずられて土砂降りの中を歩かされたっけ。

 俺がセピア色の記憶フィルムを巻き戻していると、突然ハルヒが立ち止まり、手首を捕らわれている俺も止まる。

「あたしさ」

 ハルヒはトーンを落とした声で話し始めた。

「いつの頃からか忘れたけど、いつのまにかだけど……。できるだけ人とは違う道を歩くことにしてきたの。あ、この道って普通の道路のことじゃなくて、方向性とか指向性とかの道ね。生きる道みたいな」

「ふうん」と俺は相づちを打つ。だからどうした。

「だから、みんなが選びそうな道はあらかじめ避けて、いつも別のほうに行こうとしてたわけ。だってさ、みんなと同じほうに行ったって大概面白くないことばかりだったのよ。どうしてこんな面白くないことを選びたがるのかあたしには解らなかった。それで気づいたの。なら、最初から大勢とは違うほうを選べば、ひょっとしたら面白いことが待ってるんじゃないかって」

 根っからのヒネクレ者はメジャーだからという理由なだけで、そのメジャーなものに背を向けたりする。損得度外視で自らのマイノリティの道を選ぶのだ。俺にも多少そんな気があるからハルヒの言っていることだって解らん話ではないさ。ただ、お前は極端に走りすぎるあまりメジャーだのマイナーだのとは全然別次元にいっちまってる気がするぜ。

 ハルヒはフフっと微妙な笑い方をして、

「ま、そんなことはどうでもいいんだけどね」

 何だよ。俺の答えを聞くまでもないんなら最初から尋ねるな。この状況をどう思ってやがるんだ。悠長に笑い話のできる場合ではないだろうが。

「それより気になることがあるんだけど」

「今度は何だ」

 うんざり感を込めて返答した俺に、

「有希と何かあったの?」

 …………。

 ハルヒは俺を見ず、まっすぐ前の廊下の先を見つめているようだった。

 俺の返事は一拍以上遅れていた。

「……なんのこった。別に何もねーよ」

「うそ。クリスマスイブからずっと、あんた、有希を気にしてばかりいるじゃん。気がついたら有希のほうばっか見てるし」

 ハルヒはまだ廊下の先を見通そうとしている。

「頭打ったせいじゃないわよね。それとも何よ。有希に変な下心を持ってんじゃないでしょうね」

 長門ばかりを眺めている自覚なんか心情としてまったくない。せいぜいいって朝比奈さんと合わせてロクヨンくらいの割合……なんて言ってる場合じゃねえな。

「いや……」

 口ごもざるを得なかった。例の消失の件からこっち、俺が長門をそれなりに気にしているのはハルヒの読み通りだし、言葉の上だけでも否定語を使用するのは俺自身が気にする。しかし、まさかこいつに気づかれていたとは思わないから模範解答も用意しておらず、真実をそのまま伝えるわけにはもっといかず。

「言いなさいよ」

 ハルヒはわざとのように歯切れよく、

「有希もちょっと変だもの。見た目は前と変わんないけど、あたしには解るんだからね。あんた有希に何かしたでしょ」

 わずか二言三言の間に下心から既成事実に移り変わろうとしている。このまま放っておいたら古泉たちの所に戻るまでに俺と長門は本当に『ナニかあった』ことにされてしまう恐れがある。実際に何かがあったことは確かだから、咄嗟に完全否定するのも難しい。

「あー。ええとだな……」

「ごまかそうったってそうはいかないわよ。いやらしい」

「違うって。やましいことなんか俺にも長門にもねえんだ。えー……。実は……」

 いつしかハルヒは俺にアーチェリーの的を見る目を注いでいた。

「実は?」

 挑むような目つきのハルヒに、俺はやっとの思いで言葉をねじり出した。

「長門は悩み事を抱えているんだ。そう、そうなんだよ。ちょっと前に俺はその相談に乗ってやったんだ」

 考えるのと話すのを同時進行でやるのは辛いな。それが口からデマカセならなおさらだ。

「正直言ってそれはまだ解決していないんだ。何というか……つまり……ようするに長門が自分で解決しないといけないことだからな。俺にできるのは話を聞いてやって、長門がどうしたいのかを自分で決めさせることくらいでさ。長門はまだ解答保留中だから相談された手前、俺もまだ気になっている。それが目にでちまったんだろう」

「どんな悩みよ、それって。どうしてあんたなんかに相談するわけ? あたしでもいいじゃないの」

 疑念の晴れない口ぶりだった。

「有希があたしや古泉くんよりあんたを頼りにするとは思えないわ」

「お前じゃなけりゃ誰でもよかったんだろう」

 キリキリと眉を吊り上げるハルヒを、俺は自由なほうの手で制してやった。ようやく頭が回り出してきたぜ。

「つまりこうなんだ。長門が一人暮らしをしているわけは知っているか?」

「家庭の事情でしょ? あれこれ聞き出すのはやらしいと思って、そんなに詳しくは知らないけど」

「その家庭の事情がちょっと発展を見せているんだ。結果の如何によって長門の一人暮らしは終わるかもしれん」

「どういうこと?」

「簡単に言えば引っ越しさ。あのマンションを離れて、遠くの……親族のもとに行く可能性があるんだ。当然、学校も変わることになる。言っちまえば転校だ。来年の春、キリのいいところで二年に上がると同時に別の高校に……」

「本当?」

 ハルヒの眉が緩やかに下がる。こうなればしめたものだ。

「ああ、だが長門は家庭の事情がどうあれ、転校はしたくないそうだ。卒業まで北高にいたいと言っている」

「それで悩んでたの……」

 ハルヒはしばしうつむいて、だが顔を上げたときは再び怒った顔になっていた。

「それこそ、だったらあたしに言えばいいじゃない。有希は大切な団員なのよ。勝手にどっか行くなんて許せないわ」

 そのセリフが聞けただけでも俺は満足だよ。

「お前に相談なんかしたら余計に話がこじれると思ったんだろうよ。お前のことだ。長門の親族のもとに乗り込んで、転校絶対反対のデモ行進くらいするだろう」

「まあね」

「長門は自分でケリをつけたいと決心してはいるんだ。ちょっと迷っているだけで心はあの部室にあるのさ。だがずっと一人で考え込んでいても精神に負担がかかるから、誰かに伝えておきたかったんだろう。ちょうど俺が入院してて、長門が一人でお見舞いに来てくれたときに聞いたんだ。たまたまそこに誰もいなくて俺だけがいたってことさ。それだけ」

「そう……」

 ハルヒは軽く息をつき、

「あの有希がね……。そんなことで悩んでたの? けっこう楽しそうに見えたのに。休み前だけど、廊下でたまたま出くわしたコンピ研の下っ端部員たちに最敬礼されてたわよ。満更でもなさそうな感じだったけど……」

 俺は満更でもないような顔をする長門をイメージし、どうにも想像できずに頭を揺らした。ハルヒはパッと顔を上げて、

「でも、うん、まあ、そうね。有希らしいと言えば有希らしいわ」

 信じてくれたようで俺も安堵の息を吐く。この嘘エピソードのどこに長門らしさがあったのか我ながら不思議だが、ハルヒには長門がそういう感じの娘に見えているようだ。俺は話をまとめにかかる。

「ここで言ったことはオフレコにしとけよ。間違っても長門には言うな。安心しろ、あいつなら新学年になっても部室でおとなしく本読んでるさ」

「もちろん、そうじゃないとダメよ」

「だがな」

 俺はハルヒにつかまれた手首の熱さを感じながら言い足した

「もし、万が一にだ。長門がやっぱり転校するとか言い出したり誰かに無理矢理連れて行かれようとしてたら、好きなように暴れてやれ。そのときは俺もお前に荷担してやる」

 ハルヒは目を二度ほど瞬かせた後、俺をポカンとした顔で見上げた。そして極上の笑みを広げて、

「もちろん!」

 

 俺とハルヒが一階エントランスロビーまで戻ると、スキーウェアを脱いで待っていた三人が三様の対応で迎えてくれた。

 なぜか朝比奈さんは早くも半泣きの顔をして、

「キョンくん、涼宮さぁん……。よかったぁ、戻ってきてくれて……」

「みくるちゃん、何泣いてんの。すぐに戻ってくるって言ったじゃない」

 ハルヒは上機嫌に述べて朝比奈さんの髪を撫でているが、俺は古泉の表情が目障りだった。何だよ、そのアイコンタクトは。そんな意味不明なパスを送られても俺の胸には届かんぞ。

 もう一人、長門はぼんやりと突っ立って黒目をハルヒに向けている。いつも以上にぼんやりしているように見えたが、宇宙人的有機生命体にもラッセル車じみた雪中進軍は負担だったものと解釈して俺は納得した。長門が無謬性の塊ではないというのは織り込み済みだ。今の俺はそれを知る側にいる。

「ちょっとよろしいですか?」

 古泉がさり気なく近づいて俺に耳打ちした。

「涼宮さんには内緒にしておきたいことがあります」

 そう言われれば黙って耳を傾けるしかないな。

「あなたの体感でかまいません。あなたと涼宮さんがこの場を離れてから戻ってくるまで、どれだけの時間が経ったと思いますか?」

「三十分も経ってないだろう」

 途中でハルヒの話を聞いたり嘘話を語ったりしていたものの、感覚的にはその程度だ。

「そうおっしゃるだろうと思っていましたよ」

 古泉は満足げなのか困り顔なのか解らないような表情となりながら、

「残された僕たちにとってはですね、あなたと涼宮さんが探索に出かけてからここに帰還するまで、実に三時間以上が経過しているんです」

 

 計測してくれたのは長門だった、と古泉は語った。

「あなたがたの帰りがあまりにも遅いので」

 すっかり乾いた前髪を弾きつつ、こいつはニヒルに微笑みながら、

「思いつきを試してみることにしました。長門さんに僕から見えない、離れた場所に行ってもらうよう依頼したんです。秒数を正確に数えるよう打ち合わせて、十分後に戻ってくると約束して」

 長門は素直に従ったそうだ。このエントランスから横へ続く通路へと歩き、やがて角を曲がって姿を消し----。

「ところが、長門さんは僕が二百を数え終わらないうちに帰ってきました。僕の感覚では三分も経っていないのは疑いを得ない。しかし長門さんは間違いなく十分を計測したと言い張りましたよ」

 長門が正しいに決まってる。お前が途中で居眠りをしたか桁を間違えたかしたんだろ。

「朝比奈さんも僕とほぼ同じ数を小声で数えていましたけどね」

 そりゃあ……。やっぱり長門のほうが合ってると思うのだが。

「僕だって長門さんのカウント精度を疑問視したりはしません。彼女がこういった数学的単純作業で間違いを犯すはずはないですから」

 じゃあ何だ、っていう世界だな。

「この館は場所によって時間の流れる速度が異なる……または、存在するここの人間によって主観時間と客観時間にズレが発生する。そのどちらかか、あるいは両方です」

 古泉はいっそ清々しい面持ちで朝比奈さんを乱暴になだめるハルヒを見て、また俺を見た。

「できる限り全員が一塊りになっていたほうがいいですね。でないと、どんどん時間の齟齬が生じることになる。それだけならまだいいのです。この建物の内部だけが時間的に狂っているのなら対処方法はないでもありません。しかし、僕たちが誘い込まれるようにしてここにやって来た、それ以前から齟齬が開始されていたとしたらどうでしょう。突然の吹雪と、歩けども目的地にたどり着かない山下りに、あなたはどんな想像をしましたか? 僕たちはその時すでに別の時空間に紛れ込んでいたのだとしたら……」

 ハルヒに髪をかき回されている朝比奈さんを眺めてから長門を見る。吹雪で変な形になっていた髪型はすっかり乾いて元に戻っていた。雪よりは暖かみのある白い肌だ。

 俺も古泉に囁き返した。

「お前のことだ、長門と朝比奈さんとすでに話し合いの場を設けただろう。何か言ってたか?」

「朝比奈さんにはまるで見当がついていないようです」

 それは様子を見れば解る。肝心なのはもう一人だ。

 古泉はさらに声をひそませ、

「それが何も答えてくれませんでした。僕が先ほどの依頼をしたときも一言もなく歩き出して、戻ってきてからも無言です。本当に十分間だったのかと訊いたらうなずいてはくれましたが、それ以外はどんな意思表示もなしです」

 長門は赤絨毯の表面をじっと注視している。表情がないのは昨日も今日も同じだが、ぼんやり度が増しているような気がするのは果たして気のせいですませていいのかな。

 俺が長門に気遣いの声をかけようと動きかけた時、

「キョン、何してんの。みんなに報告しないといけないじゃない」

 ハルヒが釣果を自慢するような声で一同を睥睨し、

「さっき見回ってきたんだけど、二階から上の部屋は全部ベッドルームだったわ。どっかに電話がないかと思ったんだけど……」

「ああ、なかった」と俺も追加情報を披露する。「ついでにテレビもラジオもなかった。モジュラージャックや無線機らしい機械の姿もな」

「なるほど」

 古泉は指先で顎を撫でながら、

「つまりどこかと連絡を取ったり、外界から情報を得る手段が何もないということですね」

「少なくとも二階以上にはね」

 ハルヒは不安の欠片もなさそうに微笑み、

「一階のどこかにあればいいんだけどね。あるんじゃない? これだけデカい館だもん、通信専用の部屋がわざわざ用意されてるのかも」

 では探しに行きましょう、とハルヒは旗の代わりに手を振って、暗澹たる顔つきの朝比奈さんを引き寄せた。

 俺と古泉、少し遅れて長門も歩き出す。

 

 ほどなく俺たちは食堂に落ち着いていた。アンティークな内装が施されているこのスペースは、入ったことがないからよくは知らないが三星級のレストランのような豪勢な広さと煌びやかさを兼ね備えている。白いテーブルクロスのかかった卓上には黄金色に輝くキャンドルまで立っていて、天井を見上げるとそこにも豪華なシャンデリアが吊り下がり、SOS団メンバーを冷たく見下ろしていた。

「ホントに誰もいなかったわねえ」

 ハルヒは湯気の立ちのぼるティーカップを口元に持っていきながら、

「どうしちゃったのかしら、ここの人たち。明かりもエアコンも付けっぱなしで、電気代がもったいないわ。通信室もないしさ。どうなってんの?」

 ハルヒがズルズル啜っているホットミルクティーは、このレストランみたいな食堂奥の厨房からカップやポットともども無断で拝借したものである。朝比奈さんが湯を沸かしている間にハルヒとそこら中を開けてみて回ったところ、棚には洗って乾燥させたばかりのようにピカピカの食器が並んでいるし、特大の冷蔵庫にはふんだんに食材が用意されているし、とてもじゃないがここが長らく無人の館として放置されていたとは思いがたい。まるで俺たちの到着と同時に全員が荷物をまとめて出て行ったような雰囲気だ。いや、それすら疑わしいな。だったら少しは人間の気配か残り香の一つでも残っているはずだ。

「まるでマリー・セレスト号みたいね」

 ハルヒはちゃかしているつもりらしいが、あんまり笑えないな。

 一階の探検は五人でおこなった。ぞろぞろ列になって歩く俺たちは扉を見つける度に次々に開いていき、その度ごとに使えそうなものを発見していた。巨大な乾燥機のしつらえられたランドリー室を見つけたり、最新機材が装備されたカラオケルームを見つけたり、銭湯みたいに広い浴室を見つけたり、ビリヤードと卓球台と全自動雀卓が設置されたレクリエーションルームを見つけたり……。

 願えばその通りの部屋が新たに発生するんじゃないかと思えるくらいだ。

「可能性としては」

 古泉がカップをソーサーに置き、キンキラの燭台をもてあそぶように手に取った。そのままガメる気かと思ったが、細工を入念に鑑定するような目で見てすぐに置いた。

「この館にいた人々は、吹雪になる前に全員で遠くに出かけ、この悪天候のせいで足止めされているということが考えられます」

 薄い微笑みをハルヒに見せつけるように浮かべ、

「だとすれば、吹雪が収まりしだい戻ってくるでしょう。勝手に上がり込んだ非礼を許してくれればいいのですが」

「許してくれるわよ。他にしょうがなかったんだしさ。あ、ひょっとしたらこの館、あたしたちみたいに道に迷ったスキー客の避難所になってるんじゃない? それだったら無人なのも解らないでもないわ」

「電話も無線機もない避難所なんかないだろ」

 俺の声は心持ち疲れている。五人で一階部分をのし歩いたあげくに解ったことはそれくらいだ。通信手段やニュースソースだけに留まらず、この建物の中には時計すらなかった。

 それ以前に、この館は建築基準法と消防法を確実に無視している気がするんだがと思いつつ、

「どこの誰がこんなデカいだけで不便な避難先を作るんだ?」

「国か自治体じゃないの? 税金で運営されてるんじゃないかしら。そう考えるとこの紅茶とかも遠慮なく飲めるしね。税金ならあたしだって払ってるから使用する権利はあるわ。……そうだ、お腹空いたから何か作ってきましょうよ。手伝って、みくるちゃん」

 思い立つと他人の意見に左右されないハルヒである。素早く朝比奈さんの手を取ると、

「えっ? あっはっはい」

 心配そうな瞳を俺たちに向けながら厨房へと連行された。朝比奈さんには申しわけなかったし古泉の言う時間の流れも気になるが、ハルヒが消えてくれたのは都合がいい。

「長門」

 俺は空になった陶磁器を見つめているショートカットの横顔に言った。

「この館は何だ。ここはどこだ」

 長門は固まったまま動かない。そして三十秒くらいしてから、

「この空間はわたしに負荷をかける」

 そんなポツリと言われても。

 解らん。どういうことだ? 長門のクリエイターだかパトロンだかに連絡を取って何とかしてもらうことはできないのか。異常事態なんだ。たまには手を貸してくれてもいいだろ?

 やっと俺のほうに向いた顔には何の表情もない。

「情報統合思念体との連結が遮断されている。原因解析不能」

 あまりに淡々と言われたので飲み込むまでに少々時間がかかった。気を取り直して俺は尋ねる。

「……いつからだ」

「わたしの主観時間で六時間十三分前から」

 間隔が失せているから数字で言われても解りにくいなと思っていると、

「吹雪に巻き込まれた瞬間から」

 黒目がちの瞳はいつものように静かな色をしている。しかし俺の心はあいにく静けさを保ってくれたりはしなかった。

「どうしてその時に言わなかったんだよ」

 責めているわけじゃないんだ。長門のだんまり癖は通常のこいつであるという証拠のようなものだから、しかたがないというよりはそうでなくてはならないからさ。

「ということはここは現実にある場所じゃないのか。この館だけじゃなくて……俺たちがずっと歩いてきた雪山から全部、誰かの作った異空間か何かなのか?」

 長門はまた黙り込み、しばらくして、

「解らない」

 どこか寂しそうにうつむいた。その姿がいつぞやの長門を想起させ、ちょっと焦る気分がする。しかしだ、こいつにも解らないなんて言語を絶する現象がハルヒがらみ以外にあったとは。

 俺は天を仰ぎ、もう一人のSOS団団員に言った。

「お前はどうだ。何か言うことはないか?」

「長門さんを差し置いて僕が理解可能な現象もそうありませんが」

 興味深そうな目を長門に向けていた副団長殿は、やや姿勢を正した。

「僕に解るのは、ここが例の閉鎖空間ではないということくらいです。涼宮さんの意識が構築した空間ではありません」

 言い切れるのか?

「ええ。これでも涼宮さんの精神活動に関してはスペシャリストですからね。彼女が現実を変容させるようなことがあれば僕には解ります。今回の涼宮さんは何もしていません。こんな状況を願ったわけでもない。まず無関係と言い切れます。何でも賭けてください。即座に倍賭けを宣言しましょう」

「じゃあ誰だ」

 俺はうすら寒さを感じる。吹雪のせいでそう見えるだけなのか、食堂の窓から見える風景はひたすらグレー色だ。あの青白い <神人> がひょっこり顔を覗かせても別段おかしいとは思わないような背景だった。

 古泉は長門を見習ったように沈黙して肩をすくめた。緊張感のない仕草だったが、それは演技だったのかもしれない。深刻な顔を見せたくなかったのだろうか。

「お待たせー!」

 ちょうどハルヒと朝比奈さんがサンドイッチを山積みした大皿を抱えて来たからな。

 俺の体内時計が勘で教えてくれるところによれば、そうたいして待ってはいないはずだ。ハルヒと朝比奈さんが厨房へと消えてから実質五分にも満たないだろう。だが、さり気なくハルヒに聞いて明らかになった所要時間は最低でも三十分はかかっているらしく、料理を見る限りではどうやらそっちも正しそうだった。サンドイッチ用の薄切りパンは一枚一枚焼いてあるし、ハムやレタスにも下味がついているし、卵を茹でて刻んでマヨネーズであえて具材にするにも五分ではすまないね。てんこ盛りのミックスホットサンドの量は、二人がどんなに手抜きをしても相応の時間がかかりそうな手の込みようで、余談になるのを知りつつ言うと、これがかなり美味いのだ。ハルヒの料理の腕はクリスマス鍋で身に染みていたが、いったいこいつの不得意科目は何だろう。小学校時代に出会っていれば道徳の成績だけは勝っていただろうが……。

 俺は自分の頭を小突く。

 こんなことを考えている場合じゃないんだ。心配すべきなのは今の俺たちの現状だけというわけにはいかないんだよ。

 朝比奈さんは自分の作った料理の行方が気になるのか、俺が新たにサンドイッチに手を伸ばすたびに息を詰めて見守って、安堵した顔を作ったり緊張したりしている。前者の場合がハルヒの製作によるもので、後者が朝比奈さんのものなのだろう。まる解りだ。

 彼女はまだ知らない。古泉にも言っていない。ハルヒには知らせるわけにはいかない。

 長門と俺だけが知っていて、まだ実行していないことがある。

 そうだ----。

 

 俺はまだ世界を救いに過去に戻っていないんだ。

 

 慌てて行くこともないと思い、年明けでもいいかと考えていた。朝比奈さんに何と言おうか文案を練っていたということもあって、のんびりと年末気分を味わっていたのはマズかったのか? このままこの館から出られないなんてことになれば……。

「いや、待てよ」

 それではおかしなことになる。俺と長門と朝比奈さんはなからず十二月の半ばに時間遡行するはずなのだ。でないとあの時の俺が見たあの三人は何だったのだという話になる。てことは、俺たちは首尾よく通常空間に脱出できるのか。そうであれば安心材料の一つにもなるが。

「ささ、どんどん食べなさいよ」

 ハルヒは自らパクつきながら紅茶をがぶ飲みしている。

「まだまだあるからね。何ならもっと作ってきてあげてもいいわよ。食糧庫、食べきれないほど大量の食材がたんまりあったからね」

 古泉は微苦笑してハムカツサンドを噛みしめつつ、

「美味ですよ。非常にね。まるでレストランの味です」

 太鼓持ちみたいな感想をハルヒに向けて言っているが、俺が気になるのはこいつではない。いかにも材料の無断使用を気にして食の進んでいない朝比奈さんでもない。

「…………」

 長門だ。

 ちまちまとした食べ方は本来のこいつのものではなかった。

 宇宙人製有機アンドロイドは、まるでいつもの旺盛な食欲をどこかに置き忘れたかのように、手と口の動きが半減していた。

 

 大半をハルヒと意地になった俺で平らげた軽食が終了した後、

「お風呂入りましょうよ」

 能天気にハルヒが提案し、誰も反対しなかった。反対意見がないのは誰もが肯定しているからであると思い込むのもこいつの特性で、

「大浴場があったもんね。男女別にはなってなかったから順番よ、もちろん。団長として公序良俗と風紀の乱れは許容できないからさ。レディファーストってことでいいわよね?」

 他にすることの思い当たるふしがないってのもあるが、とにかくこういう時はハルヒのようにサクサクと次に進む道を導き出す奴がいるのはかえって助かる思いだ。それだけ気分が紛れるからな。じっと考えていても何も思いつかないのであれば、機械的にでも身体を動かしているほうが脳も刺激を受けて、何やら思いつき電波を発信してくれるかもしれない。自分の脳みそに期待しよう。

「その前に部屋決めね。どこがいい? どの部屋も同じだったけど」

 古泉論によれば一部屋でまとまっているのがベストであるが、そんな提案をすればカエル跳びアッパーが飛んできそうな気がしたので自重、

「全員近くの部屋がいいな。隣同士と向かいで五部屋確保したらいいだろう」

 俺が重々しいセリフを吐くのと同時にハルヒは席を立った。

「じゃ、二階のどっかにしましょ」

 颯爽と歩き始めるハルヒを俺たちも追う。途中、エントランスに放り出したままのスキーウェアをランドリー室の乾燥機にたたき込んでおいてから、階段を上る。

 館の誰かが戻ってきたら飛び出せるように、とハルヒの配慮によって階段近くの五部屋に仮住まいさせてもらうことにした。俺と古泉が隣同士で、その通路を挟んだ対面に長門、ハルヒ、朝比奈さんが寝室を確保する。俺の正面がハルヒの部屋だ。

 さっきハルヒと見回ったときにも感じたが、余計なものの何もない文字通りのベッドルームだ。超格安ビジネスホテルだってもうちょっと何かあるぜ。古風な化粧台を除けばベッドとカーテンくらいしかない。窓は完全なはめ殺しで、よく見ると二重ガラスになっている。その防音効果か、外が相変わらずの風と雪の降り荒れる悪天候だってのに室内は無音だ。逆に気味が悪い。

 整理する手荷物もないので俺たちは部屋決めの後、すぐさま赤絨毯通路に集合した。

 ハルヒはまた挑発的な笑顔で、

「解ってるわね、キョン」

 何を解れと?

「決まってるでしょ、こういうシチュエーションに置かれた煩悩まみれの男が決まってするようなことをしちゃダメだからね。あたしはそんなステレオタイプが大っ嫌いだから!」

 何をすりゃいいんだっけ?

「だからぁ……」

 ハルヒは女団員二人の腕を引き寄せ、静謐な顔でされるがままになっている長門の横髪に側頭部をつけながら、きっぱりと叫んだ。

「覗くなっ!」

 

 ハルヒだけが姦しい三人娘たちが遠ざかるのを見計らい、俺は滑るように自室を出た。外の猛吹雪など無関係とばかりに館の通路はしんとしている。空気は暖かい。だが心地よさとは無縁のものだ。心を寒くさせるような暖かさにありがたみは感じない。

 足を忍ばせて目指した先は隣の部屋だ。小さくノック。

「何でしょう」

 古泉が顔を出し、歓待するような笑顔で口を開きかけた。俺が唇の前で人差し指を立てると、心得たように口を閉ざす、俺も無言で古泉の部屋に滑り込んだ。忍び込むのは朝比奈さんのところにしておきたかったが、ここで遊んでいるヒマはない。

「お前に言っておくことがある」

「ほう」

 古泉はベッドに腰をかけ、俺にも座るように手で促した。

「それこそ何でしょう。気になりますね。他のお三方に聞かれては困るような話でしょうか」

「長門には聞かれてもかまわんけどな」

 何の話か、それは言うまでもなかろう。

 ハルヒの消失から始まって、俺が病室で目覚めるまでの様々な事柄だ。朝倉涼子の復活、二度目の時間遡行と三年前の七夕、設定の違っちまったSOS団のメンツたち、朝比奈さん大人バージョン、それから、これから俺がしなきゃならないはずの世界復活計画----。

「ちょいと長い話になるぜ」

 俺は古泉の横に腰を下ろして語り始めた。

 古泉は絶好の聞き役で、合間合間に適当な相づちを打ちながら最後まで優等生的聴講生の態度を保っていた。

 要点だけをかいつまんでまとめたので予想したよりは長くかからない。俺としては細部まで長々と描写したいところでもあったが、何せよ優先すべきは解りやすさと一般性だと思っているので、俺もそのようにしてやった。

 おとなしくオチまで聞き終えた古泉は、

「なるほどね」

 とりたてて感動したわけでもなさそうに、微笑した口元を指でなぞりながら、

「それが本当だとしたら、興味深いとしか言いようがありませんね」

 お前の言う『興味深い』ってフレーズは時候の挨拶か。

「いえ、本当にそう思っているんですよ。実は僕にも思い当たるふしがあったものですから。あなたが話通りの体験をしたのだとしたら、僕の疑惑も補強されるというものです」

 俺は面白くない顔をしていただろう。こいつが思い当たるものとは何だ。

「弱まっている可能性があるんですよ」

 だから何がだ。

「涼宮さんの力。それから長門さんの情報操作能力もです」

 何を言おうとしているんだ? 俺は古泉を見た。古泉は無害そうな微笑みを違えず、

「涼宮さんが閉鎖空間を生み出す頻度を減じさせているというのは、クリスマス前にお話ししましたね。それと呼応するように、僕が長門さんから感じる……何と表現すべきでしょうか、つまりは宇宙人的な雰囲気と言いましょうかね? その手の感覚、気配みたいなものです。それが減少しているように思えるのです」

「……へぇ」

「涼宮さんは徐々に普通の少女に向かおうとしている。加えて長門さんもまた、情報統合思念体の一端末の立場から外れようとしている----、そんな気がしてならないのですよ」

 古泉は俺を見ている。

「僕にしてみれば、それ以上を望みようのない展開です。涼宮さんがそのまま現実の自分を肯定し、世界を変化させようと考えたりしなければ僕の仕事は終わったも同然ですよ。長門さんが何の力を持たない普通の女子高生になってくれたら大いに助かります。朝比奈さんは……そうですね、どうとでもできますから未来人でもけっこうですが」

 俺を無視するように古泉は独白を続ける。

「あなたはもう一度過去に行って自分と世界を元通りにしなければならない。なぜなら、あなたはその過去において未来から来た自分と長門さんと朝比奈さんを目撃したから----でしたか」

 そうとも。

「しかし現在の僕たちは全員揃って吹雪の山中に迷い込み、誰かが用意でもしてくれたかのような怪しい館にいる。長門さんにも理解できない。いわば異空間に閉じ込められているわけです。この状態が延々と続けば、あなたがたが過去に戻るすべはないと考えられますから、まさしくその理由によって、少なくともあなたと長門さんと朝比奈さんの三者だけは元の空間に戻らなければならない。いや、戻ることはすでに決定している……」

 そうじゃないとおかしいだろう。俺がもう一つ緊迫感を感じられないでいるのはそのせいなんだ。あの時俺は確かに俺の声を聞いた。しかして今の俺はまだあのときに戻っていないのだから、戻るのはこれからということになる。なら、このままこうして吹雪の館にずっと滞在し続けるような事態にはならないはずで、脱出できるのは規定事項だ。朝比奈さん(大)も言ってたじゃないか。『でないと、今のあなたはここにはいないでしょう?』と。

「なるほど」

 古泉はもう一度同じせりふを言って、俺に微笑みかけた。

「しかし僕には別の仮説があるんですよ。どちらかと言えば悲観的な仮説です。簡単に言うと、僕たち全員が元の空間に復帰できなくとも全然かまわないような理屈がね」

 もったいぶらずに早く言え。

 では、と前置きして古泉は用心深く声のトーンを下げた。

「現在の僕たちはオリジナルの僕たちではなく、異世界にコピーされた存在なのかもしれません」

 俺が理解するのを待つようにこちらを見ているが、意味不明にもほどがある。

「解りやすく言い換えましょう。たとえば僕たちの意識が、そのままスキャンされてコンピュータ空間に移し替えられたとしたらどうでしょうか。意識だけはそのままに仮想現実空間へ移送されたとしたら」

「コピーだあ?」

「そうです。何も意識だけに限らない。統合思念体クラスの力を持つものならどうにでもできるでしょう。つまりこの異空間に紛れ込んだ僕たちはオリジナルの僕たちではなく、ある一定時刻から忠実にコピーされた同一人物なんです。オリジナルの僕たちは……そうですね。今頃鶴屋さんの別荘で宴会を楽しんでいるのかもしれない」

 ちょっと待ってくれ。意味するところの把握が追いつかないのは俺が無学だからか?

「そういうわけではないでしょうが、もっと身近な例を挙げましょう。あなたがコンピュータゲームをしていると仮定しましょう。ファンタジー的なRPGです。何が出てくるか解らない洞窟に入る前、一応セーブするのは当然の対策と言えます。仮にそこでパーティが全滅したとしても、また元のセーブポイントからリプレイすることができますからね。あらかじめコピーデータを作製しておけばオリジナルは大切に保存しておいて、コピーにあえて無茶な行動を取らせることだって可能です。不具合があればリセットすればいいのですから。今僕たちが置かれている状況がそれだとしたらどうなります?」

 古泉は諦観したような表情になってまで、しかしまだ微笑を消してはいなかった。

「つまりはここは誰かが構築したシミュレーション空間で、僕たちはコピーされた実験動物です。このような状況下に置かれたとき、涼宮さんを含めた僕たちがどのように反応するかを観察するための、まさにそのための場所なんですよ」

「古泉……」

 呟きながら俺は猛烈な既視感に襲われていた。夏のエンドレスオーガストにも体験したような、理不尽な記憶の断片だ。何だろう。覚えているはずのない記憶が俺の頭の片隅で叫んでいる。思い出せ、と。

 ようようにして俺は言った。

「以前にも似たようなことがなかったか?」

「雪山で遭難した記憶ですか? いえ、僕にはありませんが」

「そうじゃない」

 雪山は関係ない。これとは別に、俺たちが何か他の時空に放り込まれたような記憶が……なんとなく俺にはあるんだ。そこは非常に非現実的なところで……。

「カマドウマを退治したときのことですか? あれは確かに異空間でしたね」

「それでもない」

 俺は懸命に頭を凝らした。ぼんやり浮かんでくるのは、奇妙な格好をした古泉にハルヒ、長門に朝比奈さん、そして俺。

 そうだな、古泉。何か知らんがお前は竪琴を持っていたような気がする。全員が古風な衣装を身につけていて、そこで俺たちは何かをしていた……。

「まさか前世の記憶を持っているんだとか言うのではないでしょうね。あなたに限ってそのようなことはないと考えていたのですが」

 前世だの後世だのが本当にあるんだったら、人類はもっと解り合えているだろうよ。そんなもんは現世についてイイワケをしたがっている連中の戯言だ。

「もっともです」

 くそったれ。思い出せない。異空間などに思い出はないと俺の理性が主張している。しかし俺の深い部分にある感性は別のことを訴えていた。

 何だったのだろう。断片的なキーワードしか浮かんでこないが、そこには王様とか海賊とか宇宙船とか銃撃戦みたいなものが泡のようにたゆたっている。これはどうしたことだ? そんなもんはなかったという記憶はある。しかし俺の心の奥底でわだかまっている合わないピースは何だろう。正体がつかみきれない。

 俺の苦悩するような表情を見たか、古泉は平然と言葉を継いだ。

「長門さんにも解析不能で、かつここが彼女に負荷をかけるような空間なのだとしたら、館を含めて吹雪の山での遭難を演出したものの正体はある程度推測できます」

 俺は黙っている。

「長門さんと同等か、それ以上の力を持つ誰かです」

 それは誰だ。

「解りません。ですが、そのような存在が僕たちをこの状況に追いやったとして、このまま僕たちを留め置きたいと考えるなら、最大の障害となるのは長門さんでしょう」

 古泉は下唇を指でなぞりながら

「僕がその何者かの立場なら、真っ先に長門さんをどうにかすることを考えます。単独ではほぼ無力と言っていい僕や朝比奈さんとは違って、長門さんは統合思念体と直結していますから」

 ハルヒよりよほど神様的な連中らしいからな。単数なのか複数なのかも解らないが。しかし親玉との連結が遮断されていると長門は告白している。

「ひょっとしたら、その何者かは長門さんの創造主よりも強大な力を持っているのかもしれません。そうなればアウトですが……」

 言っている途中で何やら思いついたような顔をして、ハンサム野郎は腕を組んだ。

「朝倉涼子を覚えていますよね?」

 忘れそうになっていたのだが今月になって忘れることはできないようなことが起きちまった。

「情報統合思念体内部の少数派で過激派、その一派がクーデターを成功させたというのはどうですか? 我々からすれば神も同然の知性体です。長門さんを孤立させ、僕たちを位相のズレた世界に閉じ込めることなど簡単にやってのけるはずです」

 思い出す。社交的で明るく優良なクラス委員長。尖ったナイフの切っ先。俺は二度まで朝倉に襲われ、二度とも長門に救われたのだ。

「いずれにせよあまり結果は変わりません。僕たちはこの館から脱出できず、永劫の時をここで過ごすことになる」

 竜宮城かよ。

「的を射て当を得た表現です。我々のこの状態は歓待と言ってもいいでしょう。欲しいと念じたものが用意されている。暖かく広い館、冷蔵庫に一杯の食材、お湯を満たした大浴場、快適な寝室……。館からの脱出に必要なものを除いてね」

 それでは意味がない。こんなアンノウンスペースに留め置かれて怠惰な生活を満喫できるほど俺はこれまでの人生に絶望していない。高校生活だって一年足らずで終了するにはいくらなんでも短すぎるだろ。俺にだってここにいる連中以外にももう一度は会っておきたい人間がいるさ。谷口と国木田をその数に数えてやってもいいし、家族やシャミセンとこれっきりなのはさすがに悲しいぜ。だいたい俺は冬が大の苦手で、アイスランドの人には悪いが雪と氷に閉じ込められて余生を過ごすなんざ一生かかっても慣れそうにないんだ。夏の暑さとセミの喧噪をこよなく愛する男と呼んでくれ。

「それを聞いて僕も一安心ですよ」

 古泉は大げさに息を吐いた。

「仮に涼宮さんが異常事態に気づき、自らの能力を開放することになれば、どんな結果を引き起こすか解ったものではありません。これを仕組んだ者の目的はそれであるかもしれないのです。これと言った進展がないのなら、わざと刺激的な操作をおこなって暴発を誘う。よくある手ですよ。ここがシミュレーション空間で僕たちがオリジナルと切り離されたコピーなら、下手人も遠慮することはないでしょうしね。あなただってゲームのキャラクターに無茶をさせても良心が痛むことは稀なのではないでしょうか?」

 そう言われれば思い当たる過去がないでもないな。だが連中はあくまで数値でしかなく、俺たちは現実にこうして生きているつもりだ。

「まずここを脱出することです。異空間にいるよりは現実的な遭難のほうがいくらかマシです。なんとかなる。いえ、なんとかしなければいけません。涼宮さんや僕たちを閉じ込めておきたいと思うような存在は我々にとって明確な敵です。我々というのは『機関』や情報統合思念体じゃなくて、SOS団ですけどね」

 何だっていいさ。俺と同意見なら、そいつは即座に仲間入りだ。

 それきり俺は深い思索の旅に出発し、古泉もシンクロするように考え込む顔で顎に手を当てていた。

 やがて----。

 小さなノックが俺と古泉の間の沈黙を打ち砕いた。膠でも貼り付いたような重い腰を上げ、俺は扉を開く。

「あの……。お風呂空きましたよ。次、どうぞ」

 風呂あがりの朝比奈さんはほどよく上気して、ぽわわんとした色気を無邪気に振りまいていた。湿った髪が一筋頬に貼り付いているのが妙に扇情的で、裾の長いTシャツから覗く素足が艶かしい。俺の精神状態が正常ならば、即刻抱き上げて自分の部屋の隅っこに置いておきたいくらいだ。

「ハルヒと長門はどこです?」

 俺が廊下を見ながら言うと、朝比奈さんはクスリと笑みをこぼし、

「食堂でジュースを飲んでます」

 俺の食い入るような視線を感じたのか、少し慌て気味に身体の前と裾を押さえた。

「あ、着替えは脱衣所にありましたよ。このシャツもそうなの。バスタオルと洗面道具もちゃんと……」

 照れ照れした感じの仕草がえもいわれぬ良い具合だった。

 俺は振り返って古泉の動きを目で殺しておいて、素早く通路に出た。後ろ手にドアを閉める。

「朝比奈さん、一つだけ訊きたいんですが」

「はい?」

 ドングリ眼が俺を見上げ、不思議そうに首を傾げる。

「この館についてどう思いますか? 俺にはめちゃめちゃ不自然なシロモノに思えますが、あなたはどうです」

 朝比奈さんは長く艶やかな睫毛をパチパチとさせてから、

「えーと、涼宮さんはこれも古泉くんの用意したミステリゲームの……えーと、ふくせん? なんじゃないかって言ってましたけど……お風呂場で」

 ハルヒはそうやって折り合いをつけてりゃいいが、朝比奈さんまで納得してもらっては困るな。

「時間の流れがおかしいのはどういう理屈ですか。あなたも古泉の実験に立ち会ったんでしょう?」

「ええ。でも、それも含めてトリック……? ってやつじゃないんですか?」

 俺は額を押さえて溜息を押し隠した。どうやったら古泉にそんなことが可能なのかも解らんし、仮にそれがどうにかして俺たちを欺瞞したトリックの一部なんだとしたら、ハルヒにも教えてやらないと不公平だろう。第一、時間は朝比奈さんの専門分野じゃないですか。

 俺は腹を決めて言った。

「朝比奈さん、未来と連絡はつきますか。今、ここでです」

「へ?」

 幼顔の上級生はキョトンと俺を見つめ、

「そんなの、言えるわけがないじゃあないですかぁ。うふ。禁則ですよー」

 おかしそうに笑い出してくれたが、俺は冗談を言ったつもりもなければ、これが笑い事でもないと認識しているのだ。

 しかし朝比奈さんはそのままクスクス笑いながら、

「ほら、早くお風呂入らないと涼宮さんに怒られますよ。ふふ」

 アブラナの周りを飛び交う春先のモンシロチョウのような足取りで、小柄な上級生はふわふわと階段に向かい、一度振り返って俺に不器用なウインク送り届けてから姿を階下に消した。

 だめだ。朝比奈さんは頼りにならない。頼ることができそうなのは……。

「くそ」

 俺は絨毯に向かって息を吐いた。

 あいつに余計な負担はかけさせたくない。なのに、今ここで何とかしてくれそうなのはその一人しかいない。古泉は頭でっかちな推測を口にするだけだし、ハルヒは下手なつつき方をすればどんな暴発を起こすか解らない。いくら俺が奥の手を持っているとは言え、古泉の話を聞いた後では迂闊に使用することは難しい。この状況に俺たちを追い込んだ何者かは、まさにそれを狙ってるかもしれないんだ。

「どうすりゃいいんだ……?」

 

 風呂につかって血行を良くすれば名案が閃くかと期待したが、脳みそのできばえは自分がよく知っている通りで、何ら事態を改善するようなアイデアを生み出したりはしなかった。あまりに当然の結果で落胆すら覚えないのが情けない。

 脱衣場には朝比奈さんの言ったとおり、バスタオルと着替えが用意されていた。丁寧にたたまれたフリーサイズのTシャツとイージーパンツが棚にずらりと並んでいる。適当に選んで身につけ、古泉とともに食堂へと向かった。

 先に上がっていた三人はテーブルにジュースの瓶をずらりと並べて待っていた。

「ずいぶん長風呂だったじゃん。何してたの?」

 俺としてはカラスよりは少しマシなくらいの入浴時間だったのだが。

 ハルヒが渡してきたミカン水を飲みながら、俺の視線はどうしても長門じゃなければ窓の外へと向いてしまう。身体が暖まったおかげか、すっかり機嫌の圧力が上昇しているハルヒは終始ニコニコ顔で瓶ジュースをラッパ飲みし、朝比奈さんも自分の置かれている立場をまったく理解しない微笑みを浮かべて、それは立場を理解しているはずの古泉もそうだった。長門がいつもより小さく見えたのは、湿った髪がつつましく垂れ下がっているからか。

 それにしても今何時頃なんだ。窓から見える外の様子は変わらずの吹雪一色で、しかしなぜかぼんやりと暗い。完全な真っ暗闇じゃないのがかえって不気味である。

 ハルヒも時間の感覚が失せているようで、

「娯楽室で遊ばない?」

 そんな極楽な提案をする始末だった。

「カラオケもいいけど、久しぶりに麻雀がしたいわ。レートはピンのワンスリーでルールはアリアリ、でも真面目に手作りしたいからチップとご祝儀はなしね。国士十三面と四暗刻単騎はダブル役満でいいわよね?」

 ルールにケチを付ける気はないが、俺はゆっくり首を振った。今しないといけないのはカラオケでも賭け麻雀でもなく、考えることだったからだ。

「いったん一眠りしようぜ。遊ぶんならいつでもできるだろ。さすがにちょっと疲れたよ」

 雪に半分埋もれたまま、何時間もスキー担いで歩いていたんだ。これで疲労が蓄積されないのはハルヒの筋肉くらいだぜ。

「そうねえ……」

 ハルヒは他の連中がどちらの意見に賛成なのかを見極めるように、一人一人の表情を確かめていたが、

「ま、いいわ。ちょっとお休みしましょ。でも起きたら全開で遊ぶんだからね」

 渦状星雲が二、三個入ってそうな輝きを瞳に宿らせて宣言した。

 

 それぞれ決めておいた部屋に引っ込んだ後、俺はベッドに寝そべって打開策の脳内人格会議を実行していた。しかしこんな時に限ってどいつもこいつも己の無能ぶりを露呈するだけで、何一つ有益な提案を出しやがらない。全員が押し黙って誰かが何かを言わないかとそればかりを期待しているうちに時は過ぎ、どうやら俺はうとうとしていたらしかった。なぜなら、

「キョンくん」

 いきなりの呼び声に、思わず飛び上がったくらいだから。

 ドアが開閉する音も、誰かが部屋に入ってくる足音や衣擦れ、気配すら感じていなかった。つまりそういうわけで俺は驚き、部屋の中央に立っている人影を見てさらに驚愕した。

「朝比奈さん?」

 光源になっているのはカーテンを開け放した窓からの雪明りだ。しかし、その薄暗い照明の中でもその人の容姿を見間違えるわけはない。いつも可愛い部室の精霊のごとき存在、SOS団専属のマスコットの朝比奈さんだ。

「キョンくん……」

 もう一度言って微笑み、朝比奈さんは遠慮がちな足取りで歩いてきた。慌てて座り直した俺の横に、剥き出しの両足を揃えてちょこんと腰掛ける。何だか明言できないおかしさを感じてよく見ると、廊下でお休みを言ったときと服装が違っていた。ロングTシャツ一枚みたいな格好ではない。かといってそれよりまとう布地が増えているわけでもなかった。

 朝比奈さんは白いワイシャツ一枚という、まるで誰かの妄想を具現化したような衣装で俺を見上げていた。至近距離から。

「ねえ……」

 麗しい童顔が何かを求めるように、

「ここで寝ていい?」

 二つの肺が口から飛び出るようなことを言った。(おかしい)

 潤んだ目が俺の顔を確実に捉え、頬をうっすらと上気させながら、朝比奈さんはしとやかに俺の腕にもたれかかった。(なんだこれは)

「一人だと不安なんです。眠れなくて……。キョンくんのそばなら気持ちよく眠れそうなの……」

 熱っぽい体温がシャツを通して伝わってくる。火ぶくれができるかと錯覚するほどの熱さだった。柔らかいものが押し付けられる。朝比奈さんは俺の腕を抱くように、顔を近づけてきた。

「いいでしょう? ね?」

 いい悪いの問題ではない。朝比奈さんにそこまでさせて断るような人間は男にも女にもいない。だから、いい。そうですよね、このベッドは一人寝には広いですから……。(まてよ)

 うふ、と微笑んで彼女は俺の腕を解放し、ただでさえ開いていたシャツのボタンを外し始めた。くらくらするほどの柔らかい曲線が少しずつ露になる。ハルヒによってバニーガールにさせられた時や、うっかり部室の戸を開けて着替えを目の当たりにしてしまったときに見て、パソコンのハードディスクに眠る隠しフォルダの中にある映像と同じ、あの胸元がすぐ目の前にあった。(きづけ。ちがう)

 白いワイシャツのボタンは残すところ二つ……いや一つ。真っ裸よりも扇情的なシーンだった。モデルがいいからな。何と言っても朝比奈さんがこうしているんだ。(おい)

 朝比奈さんは上目で俺を窺いながら、恥じらうような誘うような表情で微笑んでいる。指が最後のボタンにかかった。目を逸らしていたほうがいいのだろうか。(よくみろ)

 前のすっかり割れたシャツの内部に、息づく白い肌がゆるやかに上下していた。あまりにも芸術的な、アフロディーテも貝の中にひっこみそうなスタイルで(ちがうんだ)つややかな胸の丘の片方には(それだ)、アクセントのように一つの星が……。

 喉の奥が空気を吐き出す。

「くっ……!」

 俺はバネ仕掛けのようにベッドから飛び退いた。

「違う!」

 よく見ろ、どうして気づかなかった? それが俺の朝比奈さんかどうか確認するすべは俺が一番よく知っているし、この前もそうやって確認しようとしたじゃないか。朝比奈さんのそこを見さえすれば、俺には解るんだ。

「あなたは誰だ」

 ----この朝比奈さんには左胸のホクロがない。

 ベッドで半裸をさらす彼女は、俺を悲しげに見つめながら、

「どうして? わたしを拒絶するの?」

 もしこれが本物の朝比奈さんだったら? (ちがうっつってるだろ)それでも俺は理性を保てただろうか。いや、違う。そんなことも問題じゃない。朝比奈さんが人目を忍んで俺を誘惑しに来るはずはない。その必要なんかないんだ。

「あなたは朝比奈さんじゃない」

 俺はじりじり後ずさりしながら、涙を溜め始める魅惑的な瞳を見つめた。まったくどうかしている。こんな表情をさせるくらいなら朝比奈さんかどうかなんて関係ないんじゃないか? (よせよ)

「よしてくれ」

 俺は何とか口にできた。

「誰だ。この館を作った奴か。宇宙人か異世界人かどっちだ。何のためにこんなことをする」

「……キョンくん」

 その朝比奈さんの声は悲哀に沈んでいた。面を伏せ、悲しそうに唇を歪める。そして。

「!」

 彼女はシャツの裾を翻し、風のように走ってドアへ向かった。部屋を出て行く一瞬前、涙を浮かべた瞳で俺を振り向き、さっと廊下に出て行く。ドアが意外なくらい大きな音を立てて閉まり、その音につられたように俺は中から鍵をかけていたことを思い出した。合い鍵がない限り、侵入することはできなかったはずだ。

「待ってください!」

 咄嗟に丁寧語を発しつつ、俺もドアに駆け寄って開いた。

 バン。やけに大きな音がした。いくら勢いをつけたとは言え、扉一つが開いた効果音にしては腹に響くなとと思っていたら----。

「あれっ? あんた……」

 正面にハルヒの顔があった。俺の部屋の真向かい、自分の部屋の扉を開けて顔を出しているハルヒが、口をあんぐりと開けて俺を見つめている。

「キョン、さっきまであたしの部屋にいな……かったわよねえ」

 通路に顔を出しているのは俺とハルヒだけではなかった。

「あの、」

 ハルヒの右隣、Tシャツ姿の朝比奈さんも当惑顔で扉を半分開けており、左隣には、

「…………」

 長門のほっそりした姿もあった。ついでに横を見ると、

「これはこれは」

 古泉が鼻先を掻きながら変な感じに目配せし、妙な具合に微笑する。

 音が大きく聞こえたカラクリが解った。五人全員がまったく同じタイミングで扉を開いたのだ。五重奏のユニゾンがその正体だ。

「何、みんな。どうしたのよ?」

 ハルヒが最初に立ち直り、心持ち俺を睨むようにして、

「何で全員同時に一緒に部屋から出てきたの?」

 俺は偽の朝比奈さんを追おうとして----と言いかけて気づいた。さっきのハルヒのセリフに気がかりな部分がある。

「お前はなぜなんだ。まさかトイレに行こうとしたわけじゃないよな」

 驚くべきことにハルヒは少しうつむき加減に下唇を噛み、それからようやく口を開いた。

「変な夢を見たのよ。いつのまにか、あんたが部屋に忍び込んでくる夢。全然あんたらしくないことを言ったり、えーと、したりしたから、ちょっとおかしいなと思って……。そう、ぶん殴ってやると逃げ出して……。え? 夢……よね? でも、なんかおかしいわ」

 それが夢だとしたら、今は夢の続きになる。悩むように眉間を寄せるハルヒを眺めていると、古泉が足を運んできた。

「僕と同じですね」

 俺に顔を向けてジロジロと見てくる。

「僕の部屋にもあなたが現れました。見かけはあなたそのものでしたが、ちょっと振る舞いが、気味が悪かったと申しますか……。まあ、あなたがやりそうにないようなことを、ね。してくれましたよ」

 理由もなく怖気がする。古泉のニヤケ面から目を離し、俺は朝比奈さんに注目した。本物だ。こうしてみていればすぐに解る。さっきの俺は何を勘違いしたんだ? 雰囲気と言い仕草と言い、これが朝比奈さんでなくてなんだろう。

 俺の視線をどう受け取ったのか、朝比奈さんは何故か顔を赤らめた。彼女のところにも俺が登場したんだろう、と信じかけていたのだが、

「わたしのところには涼宮さんが」

 もじもじと両の指を絡ませて、

「そのぉ、変な涼宮さんで……。うまく言えないけど、偽者みたいな……」

 というか偽者だ。それは間違いないが、しかし何だこの事態は。全員の部屋に俺たちのうちの誰かのバッタもんが現れただと? 俺のところに朝比奈さんで、ハルヒと古泉の部屋に俺、朝比奈さんのもとにハルヒ……。

「長門」と俺は言い、続けて訊いた。「お前のところには誰がやってきた?」

 朝比奈さんと同じくTシャツ一丁の長門は、ぼんやりした顔を静かに上げて俺を直視、

「あなた」

 小さな声でポツリと言うと、ひっそりと両眼を閉じた。

 そして----

「……有希!?」

 ハルヒの疑問形的叫びをBGMに、俺は信じられないものを見ていた。

 長門が、あの長門有希がクタクタと崩れ落ち、見えない掌に押されたかのように、横倒しになっているのだ。

「どうしたの有希。ちょっと……」

 誰もが絶句して動けない中、唯一ハルヒだけが即座に駆け寄って小柄な身体を抱き起こした。

「わ……。すごい熱じゃないの。有希、だいじょうぶ? ねえ、有希っ!」

 首をがくんと落としたまま長門は目蓋を閉じている。無表情な寝顔だった。しかし長門が安らかに眠っているのではないということを、俺の本能が悟っている。

 ハルヒは長門の肩を抱きながら、キッとした目で大声を発した。

「古泉くん、有希をベッドまで運んでちょうだい。キョン、あんたは氷枕を探してきなさい。どっかにあるはずだわ。みくるちゃんは濡れタオルを用意して」

 俺と朝比奈さん、古泉の三人がしばし呆然としているのを見て、ハルヒは再び大音声で、

「早く!」

 

 古泉がぐったりしてた長門を抱き上げるのを見てから俺は階段を早足で下りた。氷枕か。どこを探したらあるかな……。

 そんなことを考えているのも、長門が気絶するように倒れた衝撃から立ち直れていないからだろう。あり得ない光景だった。そのせいでニセ朝比奈さんが俺の部屋でやってたことや、他の連中の部屋にそれぞれ俺たちのうち誰かの偽者が発生したというミステリーが、もうウザイくらいにどうでもよくなってきた。勝手にしやがれ。そんなもん俺には関係ない。

「やろう」

 本格的にヤバい。ちくしょう、長門にはしばらく平和な人間的生活を味あわせてやりたいと思っていたのに、これじゃ逆目しか出ていないじゃねえか。

 氷枕のあてもないまま歩いているうちに、俺は無意識に厨房にやって来ていた。俺の家では冷却シートは救急箱じゃなくて冷蔵庫に入っている。この館ではどうだろう。

「待てよ」

 大型冷蔵庫の取っ手を握る前に、俺はふと腕を止めた。氷枕を思い描き、強く念じてみる。

 冷蔵庫を開けた。

「……やはりな」

 キャベツの玉の上に、青い氷枕が載っていた。

 まったく用意がいい。便利すぎるぜ。しかし誰だか知らんが逆効果だ。おかげで決心が強まった。

 こんなところに、これ以上いてはいけない。

 

 キンキンに冷えた氷枕を抱えて食堂を出ると、館のエントランスに古泉が一人で立っていた。玄関の扉を熱心に見ているが、いったい何のつもりだ。雪をかき集めてくるようにハルヒに命じられでもしたのか。

 俺は苦言の一つでも呈してやろうとと近づき、古泉は俺に気づいて先に口火を切った。

「ちょうどよかった。これを見てもらえますか」

 扉を指さす。

 俺は文句を後回しにして指さされた方を見る。そこに奇妙なものを発見し、言葉に詰まった。

「何だ、これは」

 言えるのはその程度だ。

「こんなもんがあったとは気づかなかったが」

「ええ、ありませんでしたよ。この館に最後に入ったのは僕です。扉を閉めたときに見ましたが、その時にこんなものはなかったはずです」

 館の玄関扉、その内側に形容しにくいものが貼り付いていた。あえて近い表現を探すと、コンソールとかパネルとかになるだろうか。

 木製の扉に、金属光沢のある五十センチ四方くらいのプレート----やっぱりパネルというのが一番か----がくっついていて、頭痛を催しそうな記号と数字が並んでいた。

 我慢して目を凝らす。一番上にあるのが、

 

 x-y=(D-1)-z

 

 その一段下にも記号が並んでいて、

 

 x=□、y=□、z=□

 

 □の部分が凹んでいる。まるでそこに何かをはめ込めと言わんばかりだった。俺が三つの窪みに困惑のにらみをきかせていると、

「ピースはそこにあります」

 古泉が指差す先の床に、木枠に並べられた数字ブロックが入っていた。よくよく見ると0から9までの数字が三列になって収められている。かがみ込んで摘み上げてみた。麻雀牌のような形状で、重さもそれくらい。雀牌と違うのは表面に彫られた模様で、一桁のアラビア数字のみが刻印されている。

 計十種類の数字が三組ずつ、平らな木箱に詰められていた。

「この方程式の解答となる数字を」と古泉もブロックの一つを拾い上げて観察の視線を据え付けながら、「空いた部分に当てはめろということでしょう」

 俺はもう一度、数式のほうに目をやった。途端に頭が痛くなる。数学は俺の数多く存在する不得意科目の一つだった。

「古泉、お前には解けるるのか?」

「どこかで見たような式ではあるんですが、これだけでは何とも解きかねますね。単純に両辺の数値を等しくするだけならいくらでも組み合わせがあります。これがもし、ただ一つの解を、導き出せというのなら、もっと条件を絞ってくれないと無理ですね」

 俺は四つのアルファベットのうち、異彩を放っている一つに注目した。

「このDは何だ。答えなくてもいいみたいだが」

「一つだけ大文字ですしね」

 古泉はナンバー0の石牌をもてあそびながら喉を押さえるような仕草をし、

「この数式……。知っているような気がします。ここまで出ているんですが……。何でしたっけね。見たのはそんな昔ではないと思うんですけども」

 そのまま固まって眉を寄せている。珍しい。古泉がしみじみと真面目な顔で考え事をしている図なんてな。

「で、これに何の意味があるんだ?」

 俺は持っていた牌を木枠に戻した。

「扉の内側に忽然と算数問題が発生したのは解ったが、それがどうしたんだ」

「ああ」

 古泉はふっと我に返り、

「鍵ですよ。扉に鍵がかけられています。内側から開けるすべがありません。ノブをいくらひねっても甲斐なしなんですよ」

「何だと?」

「試してもらえば解りますよ。見ての通り、内側には鍵穴もノッチもありません」

 やってみた。開かない。

「誰がどうやって閉めたんだ? オートロックでも内側からなら開くはずだろう」

「そんな常識論が通用しない空間だという一つの証明ですね」

 古泉は意味なしスマイルを戻して、

「誰だか知りません。ですが、その誰かは僕たちをここに閉じこめておきたいのでしょう。窓はすべてはめ殺し、入り口の扉には固い施錠……」

「じゃあ、このパネルの数式は何だよ。暇つぶしのクイズか?」

「僕の考えに間違いがなければ、この数式こそが扉を開く鍵なのです」

 古泉はゆったりした口調で言った。

「長門さんが作ってくれた、唯一の脱出路だと思います」

 

 俺が最近の記憶を呼び覚ましてノスタルジーに駆られているのもお構いなく、古泉は舌をすべらかに回し始めた。

「情報戦と言うべきでしょうか。何らかの条件闘争があったものと思われます。何者かが我々を異空間に閉じ込める。長門さんはそれに対抗して脱出路を用意する。それがあの数式なのではないでしょうか。解くことができたら我々は元に戻れますが、そうでなければずっとこのままという図式です」

 古泉はコンコンと扉を叩き、

「具体的にどういう戦いがあったのかは解りようのないことです。これが精神生命体同士の情報戦なんだとしたら僕たちに想像しようもないことですから。しかし現実にはこのようなカタチとして現れた。このパネルがその結果なのでしょう」

 謎めいた館に不釣り合いな計算問題。

「偶然ではありません。僕たちが奇妙な夢的なものを見たと思ったら、その直後に長門さんが倒れ、扉にこのパネルが発生する……。これらの連続した出来事は偶発的なものではなく、何らかの関連性があるに違いありません」

「きっとそれが脱出の鍵なんですよ。たぶん、長門さんによる」

 パネルのどっかに「Copyright (C) by Yuki Nagato」と書いてあるんじゃないかと探しちまった。なかったが。

「これも推測ですが、長門さんがこの空間で使用できる力はそれほど大きくないのだと思います。統合思念体と接続を断たれた今や、彼女には彼女単独での固有能力しかないのです。だからこんな中途半端な脱出口しか開けられなかったのでしょう」

 推測にしてはやけにもっともらしいじゃねえか。

「ええ、まあね。『機関』は長門さん以外のインターフェイスとも接触を図っていますから。ある程度の情報は僕のところにも回ってきますよ」

 他の宇宙人話を詳しく聞きたくもあるが、今はいい。それよりこの妙なパズルを何とかすることだ。俺はパネルの記号と木枠に入った数字の石を交互に眺め、長門の控え目な声を思い出した。

〝この空間はわたしに負荷をかける〟

 俺たちを吹雪の館に導いたのが何者かは知らないが、長門を熱出して倒れるまでにした奴を俺は許しちゃおかん。そんなゲロ野郎の目論みに乗ってなどやるものか。何が何でもここから出て行って鶴屋さんの別荘まで戻ってやる。誰一人欠けることなく、SOS団の全員でだ。

 長門はちゃんと自分の仕事を終えたんだ。俺には見えも聞こえもしながったが、異空間にさまよい込んでからずっと不可視の〝敵〟と戦っていたに違いない。いつもよりぼんやりしているように見えたのはそのためだったんだろう。その結果、倒れ伏しながらも小さな風穴を開けてくれた。後は俺たちが扉を開かせる番だ。

「ここを出るぞ」

 俺の決意表明に対し、古泉は爽やかに笑った。

「もちろん僕もそのつもりです。いくら快適でも、ここはいつまでもいたいと思う場所ではなりませんからね。理想郷とディストピアは常に表裏一体です」

「古泉」

 そう呼びかける俺の声は自分でも驚くくらいにシリアスだった。

「お前の超能力で穴をこじ開けられないのか。このままじゃマズい。長門がああなっちまった今、なんとかできそうなのはお前だけだ」

「それは過大評価というものですけどね」

 古泉はこんな状況でも微笑を刻んでいた。

「僕は自分が万能な超能力者と言った覚えはありませんよ。力を発揮できるのは限定された条件下のみです。それはあなたもご存知のはず----」

 せりふを最後まで聞くことはなかった。俺は古泉の胸ぐらをつかんで引き寄せ、

「そんなことは聞いちゃいない」

 唇を皮肉に歪める古泉を睨みつけ、

「異空間はお前の専門だろうが、朝比奈さんは頼りになりそうにないし、ハルヒはアレだ。いつぞやのカマドウマみたいに、お前にできることもあるだろうよ。『機関』とやらは木偶の坊の集まりか」

 木偶人形なのは俺もだ。なんもできない。落ちついてもいられないから古泉以下とも言える。思いつくのはここで古泉をぶん殴り、次に俺をぶん殴ってもらうことくらいだ。手加減抜きで自分で自分を殴れないからな。

「何やってんの?」

 背後から鋭利な声が突き刺さった。不機嫌そうな声色が、

「キョン、氷枕はどうしたのよ。あんまり遅いんで見に着たら何? 古泉くんと組み手の練習して、どういうつもり?」

 ハルヒが仁王立ちで腰に手を当てていた。柿泥棒の常習犯を現行犯逮捕した近所の爺さんのような表情で、

「少しは有希のことも考えなさいよ。遊んでるヒマはないのよ!」

 俺と古泉が遊んでいるように見えたのだとしたら、ハルヒも多少は心を別の場所に移送しているのかもしれない。俺は古泉の胸元から手を放し、いつ落としたのかも記憶にない氷枕を床から拾い上げた。

 ハルヒは素早く枕を奪い取り、

「なにこれ」

 視線を扉に付いている変な式へと向けた。古泉は乱れた襟元を指で引っ張りながら、

「さあ、それを二人で考えていたのですよ。涼宮さんには見当がつきますか?」

「オイラーじゃないの?」

 拍子抜けすることに、あっさりと感想を述べた。応じたのは古泉で、

「レオンハルト・オイラーですか? 数学者の」

「ファーストネームまでは知らないけど」

 古泉はもう一度ドアの謎パネルを数秒間ほど見つめ、

「そうか」

 演出のように指をパチンと鳴らした。

「オイラーの多面体定理ですね。おそらく、これはその変形ですよ。涼宮さん、よく解りましたね」

「違うかも。でも、このDってとこ、次元数が入るんだと思うから、たぶんよ」

 違おうが正解だろうがいい。とりあえず俺は当然のような疑問を抱く。オイラーとは誰で何をしでかした人だ。多面体定理って何だ? そんなもん数学の授業に出てきたか? とも尋ねたいところだが、数学の授業はいつも半分寝ているので積極的に質問するのははばかれる。

「いえ、高校の数学では普通は出てきません。ですが、あなたも聞いたことはあるはずですよ。ケーニヒスベルクの橋問題くらいはね」

 それなら知ってる。数学の吉崎が授業中の雑談の一環として出してきたパズルの例題だった。二つの中州と川の対岸にかかった何本かの橋を一筆書きで渡りおおせるかどうかってやつだろ? 確かできないんだったよな?

「そうです」と古泉はうなずき「そのパズルは平面上の問題ですが、オイラーはそれが立体にも当てはまることを証明したんです。彼は歴史に残る定理を幾つも発見していますが、多面体定理はその一つです」

 古泉は解説する。

「あらゆる凸型多面体において、その多面体の頂点の数に面の数を足して辺の数を引けば、必ず答えが2になるという定理です」

「…………」

 俺があらゆる数学的要素を窓から投げ捨てたいと考えているのが解ったのか、古泉は苦笑しつつ片手を背中に回し、

「では、解りやすく図にしてみましょう」

 黒色フェルトペンを取り出した。どこからだ? 隠し持っていたのか? それとも俺が氷枕を出した方法でか。

 古泉はフロアに膝をつくと、涼しい顔で赤絨毯にペンを走らせた。ハルヒも俺も止めない。落書きくらいどうとでもなりそうな館だ。

 そうやって描き出されたのはサイコロのような立方体の図である。

 

※図a

 

「見てもらえば解りますが、これは正六面体です。頂点の数は8、面の数はそのまま6です。そして辺の数は12。8+6-12=2……と、なるでしょう?」

 これだけでは足りないと思ったか、古泉は新たな図形を描いた。

 

※図b

 

「今度は四角錐です。数えると、頂点の数が5、面の数も5、辺は8あるのが解ります。5+5-8で、答えはやはり2となります。たとえ面の数をどんどん増やして百面体くらいにまで行っても出てくる解答が必ず2になるこの式を、オイラーの多面体定理と言うのですよ」

「そうかい。それは解ったよ。ところでハルヒの言った次元数とは何のこった」

「それもまた単純です。この多面体定理は何も立体だけに作用する方式ではなく、二次元平面図にも当てはまるんですよ。ただしその場合、頂点+面-辺は必然的に1となるんですが、ケーニヒスベルクの橋問題はこちらの考え方です。

 絨毯に別の落書きが生まれた。

 

※図c

 

「見ての通りの五芒星、一筆書きの星マークです」

 自分で数えてみた。頂点の数はひいふう……10だ。面は……6だな。辺の数が一番多くなるのか、ええと合計15。てことは10+6-15だから----1だ。

 俺が計算している間に古泉は四つ目の図を描き終えていた。北斗七星を書き間違ったような絵である。

 

※図d

 

「こういうデタラメな図でもいいわけですよ」

 面倒になってきていたが、せっかくなので暗算してやろう。えー……。点は7、面は1、そして辺は7か。なるほど、やっぱり1になる。

 古泉は晴れやかな笑顔でフェルトペンに蓋をして、

「つまり三次元の立体ならイコール2、二次元の平面なら1になるのです。それを頭に置いて、この式を見てみましょう」

 ペン先は扉のパネルに向いていた。

「x-y=(D-1)-z。xは頂点で合っているでしょう。となればそこから引き算されるのは辺でしかないのでyは辺の数です。やや解りにくいのは本来左辺にあるべきz、すなわち面の数が右辺に移動してマイナス記号を付帯されているところですね。そしてこの(D-1)というやつですが、立体なら2、平面なら1となるはずですので、Dに当たるのは三次元なら3、二次元なら2となります。このDはディメンション、次元のDですよ」

 俺は黙って聞き続け、頭を働かせることに集中している。うむ。とりあえずは解ったと思う。なるほど、これがオイラーさんの開発したナントカ定理だというのは理解した。

「それで?」

 と俺は訊いた。

「この数字クイズの答えはどうなる。xとyとzにはどの数字ブロックを入れてやればいいんだ?」

「それは」

 と古泉は答えた。

「解りません。元となる多面体か平面図がないと」

 それじゃ意味ねーだろ。どこにあるんだ、その元となる図形とやらは。

 さあ、と古泉は肩をすくめ、俺をますます苛立たせる。

 だが、その時だ。

 難しい顔をして方程式を見ていたハルヒが、突然すべきことを思い出したみたいに、

「そんなのどうでもいいわ----、それよりっ、キョン!」

 やにわに叫ぶなよ。

「後で有希を見に来てやってよね」

 それはもちろんだが、どうしてそんなに居丈高に言うんだ。

「だってあの娘、譫言であんたの名前を呼んでるんだから。一回だけだけど」

 俺の名前を、長門が? 譫言?

「一体なんて言ったんだ?」

「だから、キョン、って」

 長門が俺を愛称で呼びかけたことなんか一度もなかった。というか、本名でもニックネームでも具体的に俺を指す名称で呼ばれた記憶そのものがない。あいつが俺を主語にするセリフを言うとき、それはいつも二人称代名詞だった……。

 俺が不定形の感情の靄を胸の奥に感じていると、

「いや……」

 古泉が異を唱える。

「それは本当に〝キョン〟でしたか? 別の言葉の聞き違いという可能性はないでしょうか」

 なんだこいつ、長門の寝言に文句を付けるつもりか。

 しかし古泉は俺を見ずハルヒを見つめて、

「涼宮さん、これはけっこう重要なことですよ。よく思い返してみてください」

 古泉にしては勢い込んだ声の調子で、ハルヒも少し意外そうにしながら目を斜め上に向けて考えるような様子を見せた。

「そうねえ。はっきりと聞いたわけじゃないからキョンじゃなかったかもしんないわね。声、小さかったしさ。もしかしたらヒョンとかジョンとかだったかも。キャンやキュンではなかったように思うわね」

「なるほど」

 古泉は満足げに、

「最初の第一声が不明で、残りの語尾だけが聞き取れたんですね。はは、そうか。きっと長門さんが言いたかったのはキョンでもジョンでもなく、〝ヨン〟ですよ」

「よん?」と俺。

「ええ、数字の〝4〟です」

「4がどうし……」

 俺はセリフを止めた。数式を見上げる。

「ねえ」

 ハルヒは苛立ったように唇を尖らせて、

「こんな数字クイズにかまけてる場合じゃないわよ。有希のことを心配しなさいよ。もうっ」

 氷枕を振り回しながら目を三角に怒らせつつ、

「後でちゃんと見舞いに来るのよ! いいわねっ!」

 雄叫びを残し、足音高くさっさと階段を上がっていった。それを見送って、完全に視界から消えたのを確認してから古泉は言った。確信に満ちた声と表情で。

「やっと条件が出そろったんですよ。これで解りました。x、y、zに当てはまる数字がね」

 

「先ほど僕たちが体験した現象を思い出してください。涼宮さんが夢だったのかと疑って、僕にはあやふやな実感がある偽者の件です」

 古泉はまたペンを片手に腰を屈めた。

「誰のところに誰の幻影が現れたのか、それを図にしてしまいましょう」

 まず古泉は赤絨毯に点を一つ打ち、その横に『キ』と書き入れた。

「これがあなたです。あなたの部屋に来たのは朝比奈さんでしたよね」

 点から上に直線を延ばし、そこにも点を穿って『朝』と記す。

「朝比奈さんの部屋には涼宮さんが登場した」

『朝』を表す点から、今度は斜め左下に線を書き、点と『涼』の字を書く。

「涼宮さんのところにはあなたでした」

 点『涼』から延びた線は点『キ』に合流し、直角三角形が完成した。

「そして僕のところにはあなたです。本当に、あなたらしからぬあなたと言えましたよ。気が狂ったとしてもあなたはあんなことをしないでしょうね」

 点『キ』から下に線を引き、点『古』と書き入れた。

「長門さんもあなただと言いましたね」

 この時点で俺も気づいた。俺を表す点から左に延ばされた線の先に点『長』が付けられて、古泉はペンのキャップをかぶせて終了の合図をする。

「すべては関連していたのです。夢とも現実ともつかない偽者は、ですから長門さんが僕たちに見せた幻影です」

 俺は古泉が描いた最新の図形を見た。じっくりと。

 

※図e

 一筆書きの〝4〟だった。

「これを扉の数式に従って計算すればいいわけです。僕たちが見た偽の僕たちとの相関図ですよ。平面なのでDは自動的に〝2〟になりますね」

 俺が頭で計算するよりも早く、

「それを当てはめていると、頂点は僕たちの人数分なので〝5〟、面の数はあなたと涼宮さんと朝比奈さんで構成された三角形ですから〝1〟、辺の数は全部で〝5〟」

 前髪を爪弾き、古泉は笑う。

「x=5、y=5、z=1。それが解答です。ちょうど両辺ともに0になりますね」

 

 感心したり賞賛してやる時間が惜しい。

 俺は数字ブロックを手に取った。三つ。答えが判明したなら、早速そいつに従ってやるのみだ。

 だが古泉はまだ疑問を持っているようで、

「僕が怖れているのは、これが消去プログラムではないかということです」

 一応訊いてやる。それは何だ。

「僕たちがコピーされ、シミュレーションによって存在させられているのだとしたら、わざわざこの異空間から出て行く必要はありません。オリジナルが現実にいるのであればそれで充分ですからね」

 古泉はちょいと両手を上向けて、

「この数式に正答することで発動する仕掛け、その正体は僕たちを消去することなのかもしれません。僕たちはいわば自殺することになるわけです。さて、ここで変化のない満ち足りた人生を永遠と歩むのと、いっそのことデリートされてしまうのと、あなたはどちらがいいと思いますか?」

 どっちも嫌だね。永遠に生きたいなどとは思わないが、今すぐ消えちぃまうのも断固として拒否する。俺は俺だ。他の誰とも入れ替わったりはしない。

「俺は長門を信じる」

 我ながら落ちついた声だった。

「お前のこともだ。俺はお前の出した解答が正解だと思っている。だが、それはこの方程式の答えまでだぜ」

「なるほど」

 古泉は以心伝心の技を会得しているのか柔らかに微笑んだ。そして半歩ほど後ろに下がって、

「あなたにお任せしますよ。何が起ころうと僕はあなたと涼宮さんについていくことしかできません。それが僕の仕事であり任務でもあるのでね」

 その割には楽しそうでよかったな。楽しい仕事なんて滅多にあるもんじゃないぞ。

 古泉は笑顔を幾分か真面目なものに変化させ、

「僕たちが通常空間に復帰できたという仮説を前提とした話ですが、一つお約束したいことがあります」

 平穏な声で言った。

「今後、長門さんが窮地に追い込まれるようなことがあったとして、そしてそれが『機関』にとって好都合なことなのだとしても、僕は一度だけ『機関』を裏切ってあなたに味方します」

 俺に、じゃなくて長門に味方しろよ。

「そのような状況下では、あなたはまず確実に長門さんに肩入れするでしょうから、僕があなたの味方するのはそのまま長門さんを助けるという意味になりますよ。やや遠回りになるかもしれませんがね」

 唇の片端を歪めて、

「僕個人的にも長門さんは重要な仲間です。その時、一度限りは長門さん側に回りたいと思います。僕は『機関』の一員ですが、それ以上にSOS団の副団長でもあるのですから」

 古泉は完全に見守る目で俺を眺めていた。自分のターンを終え、意思表示の権利を放棄して満足しているような顔だった。ならば俺は遠慮なく己の考えるところを躊躇わずにさせてもらおう。

 十二月半ば----。俺は元いた世界から一人で取り残され、いろいろ走り回ったあげく脱出できた。だから今度だってそうするのさ。あの時と違うのは、今回は俺一人じゃなくてSOS団の全員がここを出て行くってことだ。竜宮城に用はない。消えるのは俺たちじゃない。この空間だ。

 俺は躊躇なくブロックを所定の場所にはめ込んだ。

 カチン。小気味いい音がした。金具の外れる音だと思う。

 息を詰めてノブを握った。力を入れる。

 緩やかに扉が動き出した。

 

「--------」

 

 これまで俺は言葉にならない声を思わず上げてしまうような体験をしてきた。呆れ果てたり驚愕したり恐懼したりとさまざまで、何度も「こりゃないだろう」と思ったりしてて、こんだけ時間と空間が牛の胃腸ぐらいに歪んでいるようなシーンに出くわせば、いくらなんでもそろそろ殺虫剤の効きにくいゴキブリ並みの耐性がついていてもおかしくないとも考えていた。

 撤回しなければならないようだ。

 重い扉を開き終えた俺は、

「--------」

 どうやっても声を発することが不可能な状態に陥落していた。

 自分の目が信じられない。どうして俺の視神経はこんな光景を脳みそに伝えてくるんだ。どこでおかしくなった? 網膜か水晶体か。どこがイカレた。

 明るい日差しが俺の目を眩ませる。明るい陽光が上空から降り注いでいた。

「----こりゃあ……」

 クシャミが出そうなくらいの晴天が広がっている。吹雪どころか雪片のひとひらも舞っていない。どこまで行ってもただ青く、雲一粒も浮いていない空だった。あるのは……。

 リフトのケーブルが視界を横切っている。ガタゴと動く登りのリフトにスキーウェア姿のカップルが乗っていた。

 よろめいた足元が、どうしたことだ、やけに重い。

 雪だった。俺は雪を踏みしめている。キラキラと輝く白い大地が目映くて、俺の目はますます眩んだ。

 ふと気配を感じて顔を上げると、猛スピードで滑走する人影がすぐ脇を通り過ぎた。

「うわ!?」

 思わず小さくジャンプして視線を追わせる。俺を障害物のように避けて行ったのは、カービンスキーを履いたスキーヤーだった。

「ここは……」

 スキー場だ。疑いようがない。よく見なくてもそこら中にスキー客がいて、思い思い滑りを楽しんでいる様子が、ごくごく自然に目に入る。

 横を向いた。どうも肩が重いと思ったらスキーとストックを担いでいやがる。次いで足先に目を転ずると、俺の足はスキーブーツを履いていた。そして俺が着ているのは鶴屋家別荘を出るときに支給されたスキーウェア以外の何でもなかった。

 背後を大急ぎで見る。

「あ……?」

 朝比奈さんが子供の鯉ノボリみたいに口を開け、目を白黒させていた。

「なんと」

 古泉も愕然と天を見上げている。二人とも見覚えのあるウェアで、当然のようにTシャツ姿なんかではない。

 館など影も形もなかった。それはもう、絶対的にあるはずがない。ここはただの穴場のスキー場なんだ。地図にない怪しい館の出る幕なんか水蒸気の一粒子もない。

 ……ってことは。

「有希!?」

 ハルヒの声が身体の前から聞こえ、俺はいそがしく顔と眼球を動かした。

 雪の上に倒れた長門を、ハルヒが取りすがるようにして抱き起こしているところだった。

「だいじょうぶ? 有希、そういえばあなた熱が……あれっ?」

 ハルヒは巣穴から外を窺うナキウサギのように周囲を見回し、

「変ね……。さっきまで館の部屋にいて」

 そこで俺に気づいて、

「キョン、なんだか変な気分がするんだけど……」

 答えず、俺はスキーとストックを放り出して長門の横に膝をついた。ハルヒも長門も吹雪前、スイスイとゲレンデを疾走していた時の衣装のままだった。

「長門」

 そう呼ぶと、ショートヘアが小さく動き、ゆるゆると頭を上げた。

「…………」

 果てしのない無表情、いつも変わらない大きさの瞳が俺を見上げる。顔を雪まみれにした長門は、そうやってしばらくじっと視線と顔を固定していたが、

「有希っ!」

 俺を突き飛ばしたのはハルヒだった。そうして長門を抱えるようにして、

「何が何だか解らないわ。でも……、有希、目が覚めたの? 熱は?」

「ない」

 長門は淡々と答え、自分の足で立ち上がった。

「転んだだけ」

「ほんとうに? だってすっごい熱だった……ような気がするんだけど、あれ?」

 ハルヒは長門の額に手を当てて、

「ほんと、熱くないわね。でも、」

 周囲をぐるりと見渡して、

「えっ? 吹雪……。館……。まさか? 夢……じゃないわよね。あれれ? 夢……だったの?」

 俺に訊くなよ。まともな返答をしてやるサービスは受け付けてないんだ。お前限定でな。

 俺が知らんぷりを装っていると、「おーいっ」という威勢のいい声がそう遠くないところから聞こえた。

「どうしたのーっ?」

 ゲレンデの斜面がなだらかになるスキー場の麓で、二組の人影が手を振っていた。

「みくるーっ、ハルにゃーんっ!」

 鶴屋さんだった。彼女の近くには大中小の三つの雪ダルマが佇立して、ちょうど中規模雪ダルマと同じくらいの背丈の人影も付録のようについていた。こっちを見て飛び跳ねているのは俺の妹だ。

 俺は改めて現在位置を把握した。

 リフト乗り場からそう離れていない、初級コースのそれもかなり下ったあたりに俺たち五人は群れている。

「まあ、いいわ」

 とりあえずハルヒは深く考えるのを止めたようで、

「有希、おぶってあげるからあたしの背中に乗りなさい」

「いい」と長門。

「よくない」とハルヒは断じて、「よく解らないけど、自分でも何でか解らないけど、あなたは無理しちゃダメなの。熱はないみたいだけど、なんかそんな気がすんのよ。安静にしてなきゃダメ!」

 ハルヒは有無を言わせず長門を背負い、手を振り続ける鶴屋さんと妹のほうへ走り出した。新品の除雪車でもこうはいかんだろうと思えるくらいの、もし冬季五輪に人を背負っての雪上百メートル走があれば、ぶっちぎりの金メダルだろうと思える速度で。

 

 その後。

 鶴屋さんの連絡によって、荒川さんが車を回してくれた。

 長門は自分を病人扱いするハルヒに抵抗するように、長門なりの健康体アピールをポツポツと訴えていたが、俺の目配せの効果が少しはあったのか、やがて黙々とハルヒの言うなりと化す。

 車には長門、ハルヒ、朝比奈さんと妹が乗り込んで先に別荘へと向かい、俺と古泉と鶴屋さんは散歩する足取りで歩いて戻ることになった。

 その最中に鶴屋さんが語ったところによると、

「なんかさぁ、みんな板担いでザクザク歩いてスキー場降りてきたけど、何やってたのっ?」

 ええと、吹雪は?

「んーっ? そういや十分くらい猛烈に雪降った時があったかな? でも、そんな言うほどのもんじゃなかったよっ。ただのニワカ雪さっ」

 どうやら俺たちが雪の中を歩き回り、館で過ごした半日以上もの刻は、鶴屋さんにとって数分もかかっていないようだった。

 鶴屋さんはハキハキとした歩調と口調で、

「五人ともそろーりそろーり降りてきて、なぜに? って思ってて、したらば、いっちゃん前の長門ちゃんがバッタリ倒れたね。すぐ起きたけどさー」

 古泉は微苦笑するだけで何も言わない。俺も言わない。外から俺たちを観測していた第三者、この場合は鶴屋さんだが、彼女にとって俺たちはそのように見えたのだろう。そして、そっちが正しいのだ。俺たちは夢か幻の世界にいた。現実はこっち、オリジナルな世界はこっちだ。

 しばらく黙って歩みを刻んでいると、鶴屋さんは爽やかにケラリと笑い、俺の耳元に口を寄せてきた。

「ねえキョンくんっ、話は変わるけどさっ」

 なんすか、先輩。

「みくると長門ちゃんが普通とはちょっと違うなぁってことくらい、あたしにも見てりゃ解るよ。もちろんハルにゃんも普通の人じゃないよねっ」

 俺はマジマジと鶴屋さんを観察し、その明るい顔に純粋な明るさのみを見出してから、

「気づいてたんですか?」

「とっくとっく。何やってる人なのかまでは知んないけどね! でも裏で変なことをしてんでしょっ? あ、みくるには内緒ね。あの娘、自分では一般人のつもりだからっ!」

 よほど俺のリアクション顔が面白かったのだろう、鶴屋さんは腹を押さえるようにしてケラケラ笑い声を上げた。

「うんっ。でもキョンくんは普通だね。あたしと同じ匂いがするっさ」

 そして俺の顔を覗き込んで、

「まーねっ。みくるが何者かだなんて訊いたりしないよっ。きっと答えづらいことだろうしねっ。何だっていいよ、友達だし!」

 ……ハルヒ、もう準団員でも名誉顧問でもない。鶴屋さんも正式にスカウトしろ。もしかしたらこの人は俺より物わかりのいい的確な一般人を演じてくれるかもしれないぞ。

 鶴屋さんはサバサバした動作で俺の肩をはたき、

「みくるをよろしくっぽ。あの娘があたしに言えないことで困っているようだったら助けてやってよっ」

 それは……、……もちろんですが。

「でもさぁ」

 鶴屋さんは目をキラキラさせて、

「あん時の映画、文化祭のヤツだけどっ。ひょっとして、あれ、本当の話?」

 聞こえていたのかどうか、古泉が肩をすくめる仕草をしたのが目の端に映った。

 

 別荘に帰り着くと、長門はハルヒの手によって自室で無理矢理寝かされていた。

 あの館にいたときのようなぼんやり感は今や白皙の表情のどこにもなく、部室で読書しているひんやりした印象が顔面にも雰囲気にも表れている。ふとした拍子に微細な感情が揺れ動くことだってある、俺の馴染みの長門そのままだった。

 まるで寝台に憑いた介護の精のように、朝比奈さんとハルヒが長門の枕元にいて、妹とシャミセンもそこで待機していた。遅れて長門の部屋に入った俺と古泉、鶴屋さんが来るのを待っていたのか、全員揃ったところでハルヒが次のように述べた。

「ねえ、キョン。あたしさ、何だか妙にリアルな夢を見ていたような気がするのよね。館に行って、お風呂入ったりホットサンド作って食べたり」

 幻覚を見たんだろ、と言いかけた俺に、ハルヒは続けて、

「有希は知らないって言うんだけど、みくるちゃんもあたしと同じようなことを覚えていたわ」

 俺は朝比奈さんに目を泳がせた。愛らしいお茶くみメイドさんは、「ごめんなさい」と言いたげにうつむいた。

 こいつは困ったな。そんなもん幻覚かデイドリームで落ちをつけようと思っていたのに、二人揃って同じ白昼夢を見る理屈にすぐさま思いが及ばない。

 どうやって騙ろうかと考えていると、

「集団催眠です」

 古泉がやれやれという顔を俺に見せながら口を挟んだ。

「実は僕にもそれらしい記憶があるんですよ」

「催眠術にかかっていたっていうの? あたしも?」と、ハルヒ。

「人為的な術とはちょっと違いますが。そうですね、涼宮さんの性格から言って、もし今から催眠術をかけますよとあらかじめ告げたりしたら、かえって懐疑的になって催眠術が通用することはないでしょう」

「そうかも」

 ハルヒは思案する顔。

「ですが、我々は白い吹雪しか見えない風景の中を一定のリズムで延々と歩き続けていました。ハイウェイヒュプノーシスという現象をご存知でしょうか。まっすぐな高速道路を車で走り続けていると、等間隔に立っている外灯の風景がドライバーに催眠状態を誘発させ、眠らせてしまうと言う現象のことです。それと同様の状態に我々も置かれてしまった可能性は高いと思われます。電車に座って乗っているとよく眠気を催しますが、あれも電車の揺れが一定のリズムを刻んでいるからなのです。赤ん坊を眠らせるときに背中をゆっくりとトントンと叩くのも同じ理屈なんです」

「そうなの?」

 ハルヒが初めて知ったという顔をするのに対し、古泉は深くうなずきながら、

「そうなんですよ」

 説得するような口調で

「吹雪の中を行進している最中に誰かが呟いたのでしょう。どこかに避難できるような館があって、そこがとても快適な空間ならいいのに……というようなことをね。何と言っても遭難中の我々は極限状態に置かれていましたし、そんな精神状態ではどんな幻を見ても不思議はありませんよ。砂漠をさまよう者がオアシスの幻影を見るという故事はご存知でしょう?」

 古泉め、強引にまとめにかかってる。

「うん……、まあね。あれがそうだったわけ?」

 ハルヒは頭を傾けて俺を見た。

 らしいぜ。俺もうんうんうなずきながら納得顔を作ってやった。古泉はここぞとばかりに、

「長門さんが転んだ音で僕たちは正気に戻ったんです。間違いありません」

「言われてみればそんな気もするけど……」

 ハルヒはさらに首を傾げ、すぐに戻した。

「まあ、そうよね。あんな都合のいいところに変な館が建っているわけないし、だんだん記憶もぼんやりしてきたわ。夢の中で夢を見ていたような気分」

 そう、あれは夢だ。現実には存在しない館だった。俺たちには必要のない、ただの精神疲労から来る幻覚だったのさ。

 気がかりなのは他の二名。SOS団じゃない部外者だ。俺は鶴屋さんを見る。

「うへっ」

 鶴屋さんは片目を閉じて俺に笑いかけた。その表情が語りかけるものを解読すると、「まっ、そういうことにしとけばっ」という暗黙の了解が復号される。俺の勘繰りすぎかもしれないな。それ以上鶴屋さんは何も言うことなく、いつもの調子の鶴屋スマイルで一切の余計なコメントを発することはなかった。

 そしてもう一人、俺の妹はというと朝比奈さんの膝にすがりつくようにして、すっかり夢見空間をさまよっている。猫と同じで起きて喋っているときはうっとうしいが寝顔だけはやたらに可愛く、朝比奈さんも満更ではなさそうに妹の表情を眺めている。その様子では朝比奈さんも妹も古泉の解説後半部分をほとんど聞いてはいまい。

 床で毛繕いしているシャミセンが、俺を見上げて「にゃ」と鳴いた。まるで安心しろとでも言うかのように。

 

 そんなことをやっているうちに、やっと冬合宿一日目の夜が到来した。

 長門はベッドを離れたくて仕方がないようだったが、その度にハルヒは大騒ぎして半ば押し倒すように布団をかぶせていた。

 俺は思う。無理して寝かしつける必要はない。たとえそれで楽しい夢を見たとしても、しょせんは夢だ。大切なのは今ここに俺たちがこうしているということなのさ。いくら夢みたいな舞台で夢みたいな大活躍をしたとしても、目覚めるとともに強制終了される幻なんかに興味はない。解ってはいるんだ----。

 いろんなことが後回しになっている。結局あの館はなんだったとか、ハルヒは古泉の作り話を本心から受け入れたのかとか。今は長門で遊ぶことにかまけて、どうでもよくなっているみたいだが。

 ハルヒのけたたましい声から逃れるように、俺は意味もなく外に出てみた。都会では見ることのない星空とその光を反射する一面の銀色が闇雲に眩しく、けど何故かそんなに寒く感じない。

「だが」

 明日は一年の最終日だ。古泉作の推理劇興業が待っている大晦日、ハルヒもラストスパートに拍車をかけてくるだろう。

 どうせだ。それまでゆっくり休んでいればいい。長門はこんな機会が滅多になさそうなヤツだった。いつ寝てるのか、そもそも寝る必要があるのかどうかもわからないが、この際である。思う存分睡眠欲を満たすべきだ。シャミセンを布団に放り込んでやるのも妙案だろう。湯たんぽ代わりにはなる。

 見渡す限りの雪原に向かって、俺は独り言を言った。

「今夜だけは吹雪きそうにないな」

 長門が夢を見ることが可能なのだとしたら、せめて今宵だけでもいい夢が舞い降りろ。

 そう願わないほうがいい理由など、俺にはまったくもって全然ない。

 ついでに星々に祈っておく。今日は七夕ではなく大晦日にもなっていないが、別にベガとアルタイルに限った話でもないだろう。宇宙にはこんだけ恒星があるんだ。そのうちの一つに届けば何とでもしてくれるさ。

「新年をよい年にしてくれよ」

 頼んだぜ、そこにいる誰か。

 

あとがき

 

「エンドレスエイト」

 最初にこれを書いたとき、ちょうど原稿用紙換算で百枚くらいでした。そこから二十枚ほどカットしたものをザ・スニーカーに載っけていただくことになりましたが、今回せっかくですので初期バージョンに戻してみました。別に何が変わったわけでもありませんが、なんとなく気分的にホッとします。

 

「射手座の日」

 関係ありませんが、もともと僕はゲームと名の付くものをそんなにプレイすることがなく、年間通じてソフトの一つでもクリアすれば僕にしてみればよくやったほうではないでしょうか。ちなみに一番最近やり始めて何とかエンディングまで辿り着けたゲームは『リンダキューブアゲイン』でした。面白かった。

 そろそろドリームキャストを買おうかと思っています。

 

「雪山症候群」

 書き下ろし中編です。一番長いです。自動的に短くまとめてくれる編集ツールがどこかに落ちてないものかと、けっこう真剣に最近よく思います。

 この話を書くにあたって次の書物を参考資料とさせていただきました。篤くお礼申し上げます。

・『フェルマーの最終定理』 サイモン・シン著 青木薫訳(新潮社)

・『図形がおもしろくなる』 大野栄一著(岩波ジュニア新書)

 なお、作中で使用した式とその解説に変なところがあるとしたら、それは純然たる僕の脳細胞不足に他ならないことを付言しておきます。

 

 最後に、お悔やみの言葉を。

 さる二〇〇四年七月十五日、吉田直さんが逝去されました。

 思い起こせば僕と氏が最初に対面する機会を得たのは、角川書店新春感謝会の当日、僕がスニーカー大賞をありがたくも授与された式典の直後のことです。その時の僕は、実に受賞を電話で聞いた十日後のことであり、早い話が単なる素人でした。そんな素人が高名にして著名な方々がわんさと集合する感謝会会場でできたことは、ただ編集さんの後を付いて色々な人にペコリペコリと挨拶することくらいのものです。

 と、そんな緊張の極限に達しつつある僕のもとに、一人の爽やかな男性がおもむろに歩み寄ってこられました。彼は快活な笑顔とともに僕の肩を叩くと、

「よっ、後輩!」

 そうおっしゃった人こそが吉田直さんでした。

 よっ、後輩----。その時の僕に氏がかける言葉として、それ以上的確で明快なセリフはどこにも存在しなかったでしょう。

 その後、氏は、ガチガチに凝り固まり「いやあ」とか「どうも」ぐらいしか口走ることのできない僕と、それでも二言三言会話してくれた後、朗らかに笑いながら、

「じゃ、また」

 と、その場を立ち去られていかれました。それが僕が氏を見た最初で最後の姿です。

 それから三日ほどインフルエンザで寝込んで、ようやく我に返った僕は、あの時もっとマシな返答をすべきだったとしみじみ反省し、そして心に刻みました。今度会うことがあればこちらからかける言葉を用意しておこう。

 結局、僕が氏に何かを告げる機会は永遠に失われました。ですが、この場をお借りして申し上げることは無駄ではないと信じています。

 僕はこう声をかけたいと考えて、その日が来るのを待っていました。

「やあ、先輩!」

 今はただご冥福をお祈り申し上げるのみです。

 

 角川源義

 

 第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以って体験した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短すぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗してきた。これは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。

 一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化と秩序と確たる基礎を齎らすためには絶好の機会でもある。角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする。しかし私たちは徒らに百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、この文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期したい。多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願う。